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楊広:飲馬長城窟行

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○表題には、「楊広:飲馬長城窟行」と掲げたが、中国では、「飲馬長城窟行」自体が詩題となっていて、漢樂府詩の「飲馬長城窟行」を始め、陳琳詩作「飲馬長城窟行」、陸機詩作 「飲馬長城窟行」など、多くの「飲馬長城窟行」詩が存在する。

○その中で、楊広の「飲馬長城窟行」詩は、「飲馬長城窟行・示從征群臣」として案内されることが多い。隋の煬帝が突厥平定に赴く際に、万里の長城近くで休憩をした。その時の決意を詠ったものが「飲馬長城窟行・示從征群臣」詩である。

  【原文】
      飲馬長城窟行・示從征群臣
          楊廣
    肅肅秋風起,悠悠行萬里。
    萬里何所行,漠築長城。
    豈台小子智,先聖之所營。
    樹茲萬世策,安此億兆生。
    詎敢憚焦思,高枕於上京。
    北河秉武節,千里卷戎旌。
    山川互出沒,原野窮超忽。
    摐金止行陣,鳴鼓興士卒。
    千乘萬騎動,飲馬長城窟。
    秋昏塞外雲,霧暗關山月。
    緣岩驛馬上,乘空烽火發。
    借問長城候,單于入朝謁。
    濁氣靜天山,晨光照高關。
    釋兵仍振族,要荒事方舉。
    飲至告言旋,功歸清廟前。

  【書き下し文】
      長城窟にて馬に飲するの行:從征せし群臣に示す
          楊広
    蕭蕭として秋風の起こり、悠悠として萬里を行く。
    萬里、何れの行ふ所か、漠にたはる長城の築かる。
    豈の台、小子の智ふに、先聖の營む所なり。
    茲れ萬世の策を樹ぎ、此れ億兆の生を安んず。
    詎に敢へて焦思を憚れ、上京に於いて枕を高くせんや。
    北河に武節を秉り、千里に戎旌を卷く。
    山川の互みに出沒し、原野は超忽に窮まる。
    金を撞ち行陣を止め、鼓を鳴らして士卒を興こす。
    千乘萬騎は動き、長城の窟に飲馬す。
    秋の昏れ、塞外の雲、霧は暗し關山の月。
    岩に緣る驛馬の上、乘空に烽火の發す。
    長城侯に借問す、單于の入朝して謁するやと。
    濁氣は天山に靜にして、晨光は高闕を照らす。
    兵を釋てて仍りて振旅し、要荒の事を方に舉げん。
    飲至して旋を告言し、功を清廟の前に歸せん。

  【我が儘勝手な私訳】
    蕭蕭と秋風が吹く頃、悠悠として萬里の長征を行う。
    萬里に、誰が築いたのか、砂漠の中に長城が建っているのを見た。
    此の長城は、思うに、昔の聖帝が築いたものである。
    此の萬世の政策は受け継がれて、人民の永世太平を願って建設されたものである。
    此の長城に拠って、人民は憂慮を逃れ、都で枕を高くして安眠することが出来る。
    これから長城の北、北河に軍隊を出し、千里の砂漠に軍陣を張って長征を行う。
    長城の外には、山川が果てしなく続き、荒涼とした砂漠が無限に広がっている。
    長城の外で、鐘を叩き行軍し、鼓を鳴らし士卒を鼓舞する長征を続ける。
    今、千乘萬騎の軍を率いて、ようやっと長城窟まで至り、長城窟にて休息する。
    秋の夕方、長城の外には雲が湧き、霧も出て関山の月を見え隠れさせている。
    岩陰に作られた砦の馬屋の上、上空には外敵の出現を告げる烽火が上がっている。
    長城の砦の長官に尋ねる、突厥の單于がやって来て面会を申し込みはしないかと。
    不穏な空気が天山辺りに漂い、朝日が高闕の砦を照らし出しているのを見る。
    何時の日か、武器を置いて長征の旅から帰り、突厥平定を報告したい。
    何としても、凱旋の祝宴を催し、人民に勝利を報告し、戦功を宗廟に告げたい。

○杜甫に「麗人行」詩や「兵車行」詩があり、白居易に「琵琶行」詩があるように、もともと、『行』自体が楽府の一様式である。楊広は、「飲馬長城窟行」と言う、定型化された様式の中で、それまでの「飲馬長城窟行」詩とはまるで違う世界を構築してみせる。それがこの詩の眼目であることは間違いない。

○名詩には、それなりの場面と人物が要求されることは当たり前のことである。その点、隋の煬帝である楊広は、人物的には何も造作する必要が無い。随分、詩人としては、有利な立場にあると言えよう。

○楊広の「飲馬長城窟行」詩は、そういう条件を見事に生かした佳詩である。ある意味、楊広の「飲馬長城窟行」詩は、楊広でなくては作れない詩である。そういう感慨を楊広が実に見事に詠っていることに驚く。文武両道とは、楊広のような才人を指す言葉であろう。

楊広:野望

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○隋の煬帝、楊広の作品を、「江都宮樂歌」、「春江花月夜・其二」、「江陵女歌」、「飲馬長城窟行」と続けているが、今回は「野望」を案内したい。

  【原文】
      野望
       楊広
    寒鴉飛數點
    流水繞孤村
    斜陽欲落處
    一望黯消魂

  【書き下し文】
      野望
        楊広
    寒鴉の數點が飛び、
    流水は孤村を繞る。
    斜陽の落ちんと欲する處、
    一望するに黯として魂消ゆ。

  【我が儘勝手な私訳】
    寒空に鴉が数羽飛ぶのが見え、
    冷たい流れが集落の周りをぐるりと繞って流れる。
    今将に赤い太陽が沈もうとする瞬間、
    何も見えない荒野に立つと、黯然消沈した気持ちにさせられる。

○日本人も漢語を借用しているけれども、中国の漢語と日本の漢語とでは、多々意味が異なる場合がある。野望もその一つである。日本の辞書を引くと、
  【野望】
     分不相応な大きな望み。 「 -を抱く」 「 -をくじく」
     野原に出て景色を楽しむこと。 「山川-の所,煙霞の夕を見て/輔親集」
とあるけれども、多くの場合、日本では『分不相応な大きな望み。』の意味で「野望」は使用される。

○ところが、本場、中国では「野望」はあくまで『山野の景色』の意味であって、多くは秋の景色であることが多い。面白いことに、中国の「百度百科」の『野望』項目には、ご丁寧に日本語の意味の説明までがある。

      野望(日语词语)
   “野望”是日语的一个词语。日文为“やぼう”。
  【含义包括」
    1. 不合身份、离谱的愿望;野心、奢望。有日本KOEI(光荣)公司发行的著名游戏作品《信长の
      野望》。
      ―を抱く
      ―をくじく
    2. 欣赏野原美丽的景色。
      山川―の所、烟霞の夕を见て〔出典:辅亲集〕

○楊広の「野望」詩が案内する詩情は、なかなか見事なものである。しかし、こういう世界を表現するのは、日本人も大得意である。その最たるものを紹介するとなれば、やはり、藤原俊成の次の和歌であろう。

  夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
               『千載和歌集』秋上259

○この和歌は、俊成自身が『おもて歌(代表作)』と評したほどの和歌なのだが、なかなかその歌意を理解してくれる人が居ないのが残念である。詳しくは以下を参照されたい。
  ・書庫「無名抄「俊成自讃歌事」の誤り」
     :ブログ『夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/5298506.html

○楊広の「野望」詩が案内する世界を、俊成の和歌のように説明することが私には出来ないのが何とも残念である。多分、それは母国語でない限り難しい。

楊広:夏日臨江

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○中国の揚州、大明寺の売店で購入した「揚州詩咏」(李保華著)が案内する隋の煬帝の作品は、『江都宮楽歌』一首のみである。しかし、中国の検索エンジン百度の「百度百科」が案内する『楊広(隋朝第二位皇帝)』項目に「个人作品」があって、そこには以下の作品が紹介されている。
  【诗歌欣赏】
    ・江陵女歌
    ・春江花月夜
    ・野望
    ・饮马长城窟

○詳しくは、「百度百科」が案内する『楊広(隋朝第二位皇帝)』項目を参照されたい。

      杨广(隋朝第二位皇帝)
   隋炀帝杨广(569年-618年4月11日),一名英,小字阿摐,华阴(今陕西华阴)人,隋文帝杨坚与
  文献皇后独孤伽罗次子[1] ,隋朝第二位皇帝。生于隋京师长安,开皇元年(581年)立为晋王,开皇
  二十年(600年)十一月立为太子,仁寿四年(604年)七月继位。他在位期间修建大运河(开通永济渠、
  通济渠,加修邗沟、江南运河),营建东都迁都洛阳,开创科举制度,亲征吐谷浑,三征高句丽,因为
  滥用民力,造成天下大乱,直接导致了隋朝的覆亡。公元618年在江都被部下缢杀。唐朝谥炀皇帝,夏
  王窦建谥闵皇帝,其孙杨侗谥为世祖明皇帝。《全隋诗》录存其诗40多首。
  http://baike.baidu.com/item/%E6%9D%A8%E5%B9%BF/1316?from_id=62761&type=syn&fromtitle=%E9%9A%8B%E7%82%80%E5%B8%9D&fr=aladdin

○別に、「个人作品」の中では、楊広の『夏日臨江』詩を紹介している。これがまた実に佳い詩で、頗る気に入っている。

  【原文】
      夏日臨江
        楊広
    夏潭蔭修竹
    高岸坐長楓
    日落滄江靜
    雲散遠山空
    鷺飛林外白
    蓮開水上紅
    逍遙有餘興
    悵望情不終

  【書き下し文】
      夏の日に江に臨みて
        楊広
    夏潭に修竹の蔭し、
    高岸に長楓の坐す。
    日は落つ、滄江は靜かなり、
    雲は散ず、遠山の空。
    鷺は飛ぶ、林外の白、
    蓮は開く、水上の紅。
    逍遙すれば、餘興の有りて、
    悵望すれば、情の終きず。

  【我が儘勝手な私訳】
    夏の日、川には茂密高大な竹林が影を浮かべ、
    長く続く堤には点々と楓木が立ち並び、青々と生い茂っている。
    碧々と広がる川面に、赤々と太陽は沈み、
    白雲が消え、遠山の稜線が赤い空に、黒くくっきりと見える。
    林の上には、白い鷺が点々と飛ぶのが見え、
    川の中には、赤い蓮が点々と浮かんでいる。
    夏の日、川縁を散策すれば、未だ尽きることの無い感慨が興り、
    遣り切れない気持ちになって、その興奮を抑えることが出来ない。

○今回の中国旅行は、2014年6月16日(月)~23日(月)に、上海から長沙に飛び、長沙→南岳→岳陽→武漢→廬山→南昌→南京→揚州→鎮江と廻って、上海へ帰った。2013年6月にも、長沙→岳陽→武漢→廬山→九江→九華山→黄山の旅をしている。2013年10月にも、普陀山から寧波、南京、揚州の旅をした。

○楊広の「夏日臨江」詩の風景は、中国江南の地であれば、随所に見ることが出来る。また、それは楊万里が西湖で詠じた「曉出淨慈寺送林子方」詩と共通する感慨ではないか。

  曉出淨慈寺送林子方
        楊万里
    畢竟西湖六月中    畢竟、西湖は六月中なり。
    風光不與四時同    風光は四時と同じからず。
    接天蓮葉無窮碧    天に接して、蓮葉は碧に窮まる無く、
    映日荷花別樣紅    日に映じて、荷花は別樣、紅なり。
  ・書庫「白居易の愛した佛都・杭州」:ブログ『曉出淨慈寺送林子方』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37273098.html

○中国には、『上有天堂下有苏杭(天上界には天国が存在するように、地上界には蘇州杭州が存在する)』と言うことわざが存在する。揚州は蘇州杭州ではないけれども、まさしく地上界の天堂に相応しい美しい土地である。その揚州が最も美しい季節が旧暦六月なのである。

○楊広が「夏日臨江」詩で詠じる、
  夏潭蔭修竹    夏潭に修竹の蔭し、
  高岸坐長楓    高岸に長楓の坐す。
  日落滄江靜    日は落つ、滄江は靜かなり、
  雲散遠山空    雲は散ず、遠山の空。
  鷺飛林外白    鷺は飛ぶ、林外の白、
  蓮開水上紅    蓮は開く、水上の紅。
世界を、今回の旅行で存分に堪能することが出来たことが嬉しい。

楊広:幸江都詩

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○楊広の「幸江都詩」は、ある意味、凄まじい詩である。

  【原文】
     幸江都詩
       楊広
    求歸不得去
    真成遭固春
    鳥聲爭勸酒
    梅花笑殺人

  【書き下し文】
      江都に幸するの詩
       楊広
    歸るを求むるに、去るを得ず、
    真に固より春の成るに遭ふ。
    鳥の聲は爭ひて酒を勸め、
    梅の花は笑ひて人を殺す。

  【我が儘勝手な私訳】
    揚州の江都宮に巡幸したいと願うのに、なかなかそれが実現出来ないで居た。
    そうしているうちに、世の中はすっかり春になってしまったではないか。
    春の鳥、鴬の鳴き声は頻りに酒を勧めて止まないし、
    海の花は満開に咲き誇り、人を悩ませて止まない。

○楊広の「幸江都詩」は、一見、春爛漫の満足感に満ち足りた詩の雰囲気を醸し出しているかのように感じる。この作品が作詩されたのは、隋大業十三年(617年)のことだと言う。起句で、作者である、隋の煬帝、楊広が、
  求歸不得去    歸るを求むるに、去るを得ず、
と詠じるのは、隋王朝滅亡の嵐が押し寄せ、その対応に追われる楊広の姿、そのものである。

○隋の煬帝、楊広が殺害されたのは、その翌年、大業十四年(618年)四月十一日のことである。享年五十歳。楊広は仁寿四年(604年)七月に即位して、およそ14年間の在位中、大業八年(612年)の高句麗遠征失敗から急速にその権威を失墜して行く。

○楊広の「幸江都詩」詩は、そういう危うい状況の中での作となっている。「幸江都詩」詩の華やかさの中に、滅び行くものの美を見ようとするのは、あくまで、結果論に過ぎない。それでも、どうしてもそういう見方をしてしまう。

○少なくとも、楊広の「幸江都詩」詩には、ある種の諦観があることだけは間違いない。その証拠に、「幸江都詩」詩には、春を謳歌する気分がまるで窺えない。
  鳥聲爭勸酒    鳥の聲は爭ひて酒を勸め、
  梅花笑殺人    梅の花は笑ひて人を殺す。
と、春爛漫に悩まされる詩人の苦悩が吐露されている。

隋煬帝:楊広

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○本ブログでは、これまで、隋の煬帝、楊広の作品を、
  ―婢床峽醋襦β彊
  江都宮樂歌
  春江花月夜・其二
  す称予
  グ歪江觀行
  μ酲
   夏日臨江
  ┨江都詩
と続けて来た。およそ、詩人楊広の作風がどんなものであるかくらいは、案内できたのではないか。

○ただ、隋の煬帝、楊広の歴史的評価はあまりに非道い。例えば、日本の「ウィキペディアフリー百科事典」が案内する隋の煬帝は、次のようになっている。

      煬帝
   煬帝(ようだい、ようてい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。煬帝
  は唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君といわれる。
  【歴史的評価】
   煬帝は暴君として描写され、その業績は否定的に評価される傾向にある。大運河に関しては女性ま
  でも動員した急工事でこれを開鑿し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗って行幸した
  ために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世に評されることになる。
   しかし大運河の建設は長期間分裂していた中国を統一するための大事業でもあった。
   また共に次子でありクーデターによって帝位に就くなど、環境や行動に類似点の多い唐太宗の正統
  性を主張するため、煬帝(ようだい)と言う貶字を謚号に用い、『隋書』にも暴君であるように編纂
  したとする意見もある。
   煬帝個人に関する研究は多いとは言えないが、その中で宮崎市定・布目潮渢・アーサー・F・ライ
  トが挙げられ、いずれも煬帝の暴君像は後世に(その程度がどれほどであったかは別として)誇張さ
  れたとする点では共通している。
  【詩人としての煬帝】
   煬帝は統治者としては結果として国を滅ぼした失格者であったが、一面では隋代を代表する文人・
  詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行なったといわれる。治世後半には自
  らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える抒情詩を数多く残した。煬帝の作品は文学史上からも高い
  評価を受けている。
  【倭国との関係】
   倭国が第2回遣隋使(607年)を遣ったのがこの煬帝の治世で、「日出處天子致書日沒處天子無恙」
  (日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや)の有名な書き出しで始まる国書が倭
  王から送られている。東夷の島国の王が「天子」を称するのは固より剰え対等な関係を求め、字面で
  は「没落の途にある皇帝」を意味する「日没處天子」という語句に煬帝はいたく立腹したが、当時隋
  は高句麗遠征を控えて外交上倭国との友好関係は必要と判断し、裴清を倭国へ派遣した。煬帝在位中
  に遣隋使はこの第2回を含めて計4回も派遣されている。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D

○「ウィキペディアフリー百科事典」も案内しているように、現在、ようやく、隋の煬帝、楊広の歴史的認識を改めようとすることが盛んに行われていることも事実である。史実を辿り、楊広の作詩を読むと、隋の煬帝、楊広が尋常の人物では無いことだけは明らかである。

○その点、中国では、既に、相当、隋の煬帝、楊広の歴史的評価は改められつつある。インターネットで検索しても、そのことは明らかである。以下、主な隋の煬帝、楊広の案内を提示しておく。

  【百度百科】
      杨广(隋朝第二位皇帝)
   隋炀帝杨广(569年-618年4月11日),一名英,小字阿摐,华阴(今陕西华阴)人,隋文帝杨坚与
  文献皇后独孤伽罗次子,隋朝第二位皇帝。生于隋京师长安,开皇元年(581年)立为晋王,开皇二十
  年(600年)十一月立为太子,仁寿四年(604年)七月继位。他在位期间修建大运河(开通永济渠、通
  济渠,加修邗沟、江南运河),营建东都迁都洛阳,开创科举制度,亲征吐谷浑,三征高句丽,因为滥
  用民力,造成天下大乱,直接导致了隋朝的覆亡。公元618年在江都被部下缢杀。唐朝谥炀皇帝,夏王
  窦建谥闵皇帝,其孙杨侗谥为世祖明皇帝。《全隋诗》录存其诗40多首。
  http://baike.baidu.com/subview/59719/5064817.htm?fromtitle=%E9%9A%8B%E7%82%80%E5%B8%9D&fromid=62761&type=syn

  【維基百科(Wikipedia)】
      隋炀帝
   隋炀帝杨广(569年-618年4月11日),一名英,小字阿𡡉。隋文帝杨坚和文献皇后独孤伽罗的次子,
  是隋朝第二位皇帝。隋恭帝杨侑諡杨广为炀帝;夏王窦建諡杨广为闵帝;皇泰主杨侗諡杨广为明帝,
  庙号世祖。
   隋炀帝604年8月21日由楊素協助登基,在位期间加强中央集权,扩大统治的社会基础。但他好大喜功、
  穷奢极欲,据研究仅从公元604年至608年短短4年间就动用了近540多万民力修建大运河(开凿通济渠、
  永济渠),长城和洛阳城。又西巡张掖、“亲征”吐谷浑、以厚利诱使西域商贾至洛阳,并于大业八年
  (612年)征集三十万军队攻打高句丽(不包括后勤100多万民力),几乎动用了举国之力,最终于公元
  611年引发民众乃至贵族大规模的起义——隋末民变,618年杨广在江都被部下缢杀。
  http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B%E7%85%AC%E5%B8%9D

  【互动百科】
      隋炀帝
   隋炀帝杨广(569年-618年4月10日)是隋朝的第二个皇帝,隋文帝杨坚次子,母文献独孤皇后。开
  皇二十年(600年)十一月立为太子,仁寿四年(604年)七月继位。他在位期间修建大运河,营造东都
  洛阳城,开拓疆土畅通丝绸之路,开创科举,三征高丽等。
  http://www.baike.com/wiki/%E9%9A%8B%E7%82%80%E5%B8%9D

○前に、揚州文学を彩る詩人として、次のように案内した。
   「揚州詩咏」(李保華著)が案内するように、やはり、揚州文学の粋は、杜牧であり、欧陽脩・王
  安石・蘇軾であり、王士禎なのではないか。それ程、豊かな文学が揚州には存在する。

○しかし、よくよく「揚州詩咏」(李保華著)を読むと、その中に詩人楊広を加える必要性がある。そういう意味で、本ブログでは、ここに詩人楊広の作品を紹介した。

李益:汴河曲

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○前回の最後に、
  ●前に、揚州文学を彩る詩人として、次のように案内した。
    「揚州詩咏」(李保華著)が案内するように、やはり、揚州文学の粋は、杜牧であり、欧陽脩・
    王安石・蘇軾であり、王士禎なのではないか。それ程、豊かな文学が揚州には存在する。
  ●しかし、よくよく「揚州詩咏」(李保華著)を読むと、その中に詩人楊広を加える必要性がある。
   そういう意味で、本ブログでは、ここに詩人楊広の作品を紹介した。
と書いたが、やはり、揚州文学に於いて、楊広は必要不可欠な文人だと思われてならない。

○その理由は、第一に詩人楊広が気高い詩風を構築していることが挙げられよう。しかし、更に興味深いのは、揚州文学で楊広は詩人として登場するだけではなところにある。別に、楊広は隋の煬帝として懐古され、追憶される人物でもあり、揚州文学の中では極めて特異な存在となっている。

○今回案内する李益の「汴河曲」詩にも、そういう楊広が登場する。

  【原文】
      汴河曲
         李益
    汴水東流無限春
    隋家宮闕已成塵
    行人莫上長堤望
    風起楊花愁殺人

  【書き下し文】
      汴河曲
         李益
    汴水は東流す、無限の春、
    隋家の宮闕は、已に塵と成る。
    行人長堤に上り望むこと莫かれ、
    風の起つて楊花、人を愁殺す。

  【我が儘勝手な私訳】
    隋の煬帝が築いた汴河は滔々と東へと流れ、世の中は春に充ち満ちている、
    あれほど権勢を誇った隋家の宮殿は、今はもう既に跡形もなく消滅している。
    旅人は決して汴河の高い隋堤へ登って眺望を楽しもうと思ってはならない、
    春風が白い楊の綿毛を運んで来て、旅人に物凄く悲しい思いをさせるから。     

○汴河とは、隋の煬帝、楊広が造り上げた大運河の通济渠のことである。中国の検索エンジン百度の「百度百科」が案内する汴河は、次の通り。

      汴河
   汴[biàn]河,亦即通济渠。隋炀帝时,发河南淮北诸郡民众,开掘了名为通济渠的大运河。自洛阳西
  苑引谷、洛二水入黄河,经黄河入汴水,再循春秋时吴王夫差所开运河故道引汴水入泗水以达淮水。故
  运河主干在汴水一段,习惯上也呼之为汴河。
  http://baike.baidu.com/view/401996.htm?fr=aladdin

○李益は、日本ではあまり馴染みの無い詩人である。「ウィキペディアフリー百科事典」には簡単な人物紹介がある。

      李益
   李益(り えき、748年 - 827年?)は、中国・唐の詩人。字は君虞(くんぐ)。鄭州の人物である
  が、祖籍は隴西狄道(甘粛省臨洮県)。
   大暦4年(769年)の進士で、鄭県(陝西省華県)の尉となったが、昇進の遅いのに不満を抱いて辞
  職し、河北の地方を遊歴、幽州(北京)・邠寧(甘粛省東部)節度使の幕僚となった。その文名が憲
  宗に聞こえ、秘書少監・集賢殿学士に任ぜられ、傲慢な態度のために一時降職されたが、侍御史・太
  子賓客・右散騎常侍を歴任、礼部尚書に至った。
   疑い深い性格で、妻や妾の部屋にはいつも鍵をかけ、戸口に灰を撒いて不義を防いだりしたため、
  「妬癡(とち)尚書李十郎」と呼ばれたという。
   大歴十才子の一人に数えられ、『李君虞詩集』2巻が残っている。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%9B%8A

○「百度百科」が案内する李益は、次の通り。

      李益
   李益(约750—约830), 唐代诗人,字君虞,陇西姑臧(今甘肃武威)人,后迁河南洛阳。大历四年(7
  69)进士,初任郑县尉,久不得升迁,建中四年(783)登书判拔萃科。因仕途失意,后弃官在燕赵一带漫
  游。以边塞诗作名世,擅长绝句,尤其工于七绝。
  http://baike.baidu.com/view/16879.htm

○別に、「百度百科」には、『汴河曲』項目も存在する。それ程、李益の『汴河曲』は、中国では知られた作品なのであろう。

      汴河曲
   《汴河曲》是由唐代诗人李益创作的怀古诗。全诗描写了汴河周边的景色,诗人从眼前的汴河引发出
  吊古伤今之情、历史沧桑之感,委婉曲折,感情深沉。
  http://baike.baidu.com/view/652757.htm?fr=aladdin

○李益の『汴河曲』詩中、結句の、
  風起楊花愁殺人    風の起つて楊花、人を愁殺す。
表現が頗る気に入った。この句が楊広の「幸江都詩」の結句、
  梅花笑殺人    梅の花は笑ひて人を殺す。
を受けていることは間違いあるまい。

○「楊花愁殺人」とか、「梅花笑殺人」とか言う表現は、まず、日本ではお目に掛からない。中国語独特の表現では無いか。その分、日本人には極めて新鮮な表現に映る。以前、この表現に出遭った時、戸惑いすら覚えた記憶がある。
  ・書庫「舜禹之都:紹興・上虞」:ブログ『秋瑾:秋風秋雨愁煞人』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37422658.html

○2013年10月に、初めて揚州を訪れた際、朝の散歩で、京杭大運河見物に出掛けた。その時の感慨を思い出した。李益の「汴河曲」詩も、そういう詩想ではないか。
  ・書庫「鑑真和上の揚州」:ブログ『京杭大運河:揚州』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38784240.html

○もっとも、李益が「汴河曲」詩で懐古する隋の煬帝、楊広は100年前の人物だが、2013年10月に、私が京杭大運河で追憶した楊広は、遙か1400年も昔の話である。

皮日休:汴河懷古二首

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○前回、「揚州詩咏」(李保華著)から、李益の『汴河曲』詩を案内した。今回紹介するのは、皮日休の『汴河懷古二首』詩である。李益(約750~830)が中唐の詩人だったのに対し、皮日休(約838~883)は晩唐の詩人である。

  【原文】
     汴河懷古二首【其一】
        皮日休
    萬艘龍舸絲間
    載到揚州盡不還
    應是天教開汴水
    一千餘里地無山

  【書き下し文】
     汴河懷古二首【其一】
        皮日休
    萬艘龍舸、絲の間、
    載せて到る揚州、盡く還らず。
    應に是れ、天の汴水を開けしむべし。
    一千餘里の地に、山は無し。

  【我が儘勝手な私訳】
    嘗て、隋の煬帝が多くの豪華に飾った大船を浮かべて、楊の茂る汴河を航行したが、
    その隋の煬帝は揚州で殺され、もう再び帰って来ることは無い。
    まさしく、天が隋の煬帝をしてこの地に汴河を開掘、開通させたに違いない、
    揚州は千里四方に、何処にも山が見えないところであるから。

  【原文】
     汴河懷古二首【其二】
        皮日休
    盡道隋亡為此河
    至今千里通波
    若無水殿龍舟事
    共禹論功不較多

  【書き下し文】
     汴河懷古二首【其二】
        皮日休
    盡く道ふ、隋の亡ぶは此の河の為なると、
    今、千里を至りて、波の頼通す。
    若し、水殿龍舟の事無ければ、
    禹と共に論功は多く較べず。

  【我が儘勝手な私訳】
    誰もが言って憚らない、隋王朝の滅亡は大運河建設が原因であると、
    今でも、大運河は中国の北と南とを直結する大事な水路となっている。
    もし、隋の煬帝が豪華絢爛な大船を浮かべて汴河遊覧しなければ、
    隋の煬帝は古代の聖王禹と、その論功は比較されるほどの大事業であったのに。

○中国の検索エンジン百度の「百度百科」が案内する皮日休は、次の通り。

      皮日休
   皮日休(约838—约883),晚唐文学家。字袭美,一字逸少,汉族,今湖北天门人。一位道、儒兼修
  的学者。曾居住在鹿门山,自号鹿门子,又号间气布衣、醉吟先生、醉士等。晚唐诗人、文学家,与陆
  龟蒙齐名,世称"皮陆"。咸通八年(867)进士及第,在唐时历任苏州军事判官(《吴越备史》)、著
  作佐郎、太常博士、毗陵副使。后参加黄巢起义,或言“陷巢贼中”(《唐才子传》),任翰林学士,
  起义失败后不知所踪。诗文兼有奇朴二态,且多为同情民间疾苦之作。被鲁迅赞誉为唐末“一塌糊涂的
  泥塘里的光彩和锋芒”《新唐书·艺文志》录有《皮日休集》、《皮子》、《皮氏鹿门家钞》多部。
  http://baike.baidu.com/view/11081.htm?fr=aladdin

○また「百度百科」には『汴河怀古二首』項目も存在する。

      汴河怀古二首
   《汴河怀古二首》是唐代文学家皮日休的组诗作品。第一首诗描述了隋炀帝游览扬州的豪华船队以及
  大运河的地理环境,隐含了隋炀帝被部将所杀的历史事实以及对唐王朝的警示。
   第二首诗从隋亡于大运河这种论调说起,接着反面设难,批驳了修大运河是亡国之举的传统观点,从
  历史的角度对隋炀帝的是非功过进行了评价。全诗立意新奇,议论精辟,不失为唐代怀古诗中的佳品。
  http://baike.baidu.com/view/3356690.htm?fr=aladdin

○上記、「百度百科」の『汴河怀古二首』項目にもあるように、皮日休の『汴河懷古二首』詩は組詩となっていて、其一詩と其二詩は、お互い補完関係にある。李益の『汴河曲』詩が極めて感情的、観念的に隋の煬帝、楊広を懐古しているのに対し、皮日休の『汴河懷古二首』詩のそれが、頗る理知的、論理的であるところが面白い。

○中国、杭州は、もともと余杭から起こった地名である。その余杭は、聖王禹が箱船に乗ってやって来たことに由来する地名である。つまり、余杭とは、禹の箱船の謂いである。越国は古代の聖王、禹の故地である。会稽(現在の紹興)には、今でも、聖王禹の御陵が存在する。

○同じように、楚国揚州は隋の煬帝、楊広の故地であると、皮日休の『汴河懷古二首』詩は詠う。汴河は只の運河では無い。天が隋の煬帝、楊広をして作らせたものだと言う。その大運河建設が隋の煬帝、楊広を滅ぼしたと世人は言って憚らないけれども、こんな未曾有の建設は常人の為せる業ではない。それこそ古代の聖王、禹に匹敵するような大変な業績だと評価する。

○間違いなく、皮日休の判断は正しい。現代に至って、ようやく、隋の煬帝、楊広の人物評価は見直されつつある。皮日休が九世紀に下した判断が二一世紀になって、何とか日の目を見ることとなった。詩人の眼力は何とも凄まじい。

○批判することは、何でも簡単である。しかし、何かを評価することはなかなか容易では無い。世人は何でも、無批判に批判することで自己を高められると錯覚し、自己満足している。本当は、何かを評価することで自己の昂揚はなされるのではないか。

○皮日休の『汴河懷古二首』詩は、私たちにそういうことを問うているような気がしてならない。

劉長卿:春草宮懐古

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○李益の『汴河曲』詩や皮日休の『汴河懷古二首』詩の前に、劉長卿の「春草宮懐古」詩が成立している。順序が逆になったが、今回案内するのは、劉長卿の「春草宮懐古」詩である。

  【原文】
      春草宮懐古
        劉長卿
    君王不可見
    芳草舊宮春
    猶帶羅裠色
    青青向楚人

  【書き下し文】
      春草宮懐古
        劉長卿
    君王見るべからず、
    芳草は舊宮に春を。
    猶ほ帶ぶがごとし、羅裠の色、
    青青として楚人に向ふ。

  【我が儘勝手な私訳】
    もはや隋の煬帝を見ることは出来ないのに、
    揚州の春草宮跡には、今年も春草が青々と茂る春が訪れている。
    その色はあたかも春草宮の后たちの裳裾のような色鮮やかさで、
    春草はその鮮やかな色合いを、今年も東楚の揚州、春草宮跡で人々に見せていることだ。

○中国の検索エンジン百度の「百度百科」に、『春草宮懐古』項目があって、そこには次のように載せる。

      春草宫怀古
    春草宫怀古
  君王不可见,芳草旧宫春。
  犹带罗裙色,青青向楚人。
    【作品名称】:春草宫怀古
    【创作年代】:唐朝
    【文学体裁】:五言绝句
    【作  者】:刘长卿
  【作品赏析】
   春草宫是隋炀帝所建的离宫,它的故址在江苏省江都县境内。宫以春草命名,可见此地春色芳草之浓
  盛。此诗也正是从芳草春色入笔,就春色芳草的点染来抒发怀古之情。
   自然的规律是严峻无情的,历史的法则是严峻无情的,曾不可一世的隋炀帝终被人民前进的激浪吞没。
  面对久已消沉的隋宫废殿遗墟,诗人在首句发出“君王不可见”的感慨,这既是对历史法则的深刻揭示,
  也同时深含着对暴君隋炀帝的鞭笞。昔日豪华的楼台亭阁早已不见,唯有茂盛的“芳草”在“旧宫”废
  墟中迎着春日疯长着,“芳草”是作者在诗中展示的最显著最明亮的可见物,这是紧扣诗题“春草宫”
  而来的,“芳草”二字不仅仅形象地展示出昔日“春草宫”今貌,而且也十分巧妙地把伤今怀古的主题
  自然顺畅地引入了自然的法规和历史的法则序列中。“春草宫”虽然在历史的进程中成为废殿遗墟,但
  一年一度草木枯荣,春色依然浓烈地妆扮着这里。
  http://baike.baidu.com/view/4929062.htm?fr=aladdin

○上記説明にあるように、春草宮は隋の煬帝の離宮で、揚州に存在した。劉長卿の「春草宮懐古」詩は、春草宮の名を実に上手く利用して作詩していることに感心する。

○劉長卿の「春草宮懐古」詩のように、自然と人事を対照的に描く手法は、この時代、多く見られる。例えば、杜甫の「春望」、
    春望
  国破山河在    国破れて山河在り。
  城春草木深    城春にして草木深し。
  感時花濺涙    時に感じては花にも涙を濺ぎ、
  恨別鳥心驚    別れを恨んでは鳥にも心を驚かす。
  烽火連三月    烽火三月に連なり、
  家書抵萬金    家書万金に抵る。
  白頭掻更短    白頭掻けば更に短く、
  渾欲不勝簪    渾て簪に 勝へざらんと欲す。

○最近、中国各地の洞天福地を訪れてみて、感じることだが、日本人の感じる「自然と人事」と、中国人の感じる「自然と人事」とでは、かなりの相違があるような気がしてならない。日本人のそれが極めて情感的なのに対し、中国人のそれは宗教的色彩が濃い。

○ある意味、日本人の感覚は自己中心的なのかも知れない。それに対して、中国人では、それがあくまで自然に中心がある。人間など、自然に比べたら、取るに足りない存在でしかないのである。そういう感覚の差違は大きい。

○劉長卿の「春草宮懐古」詩や杜甫の「春望」詩を読んで、日本人の感覚で認識することには、相当の注意を要する。もともと、詩人にそういう意識が無いのである。こういう感覚は、実際、中国を訪れ、中国で身に付けるしか無い。

○詩を読む上で、思いの外、大事な要件である。

賈島:尋人不遇

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○前回、劉長卿の「春草宮懐古」詩を紹介したが、 隋の煬帝が揚州に建設したのは春草宮だけではない。迷楼もまた揚州では有名な建物であった。その迷楼を詠った詩に、賈島の「尋人不遇」詩がある。

  【原文】
     尋人不遇
       賈島
    聞説到揚州
    吹簫有舊游
    人來多不見
    莫是上迷樓

  【書き下し文】
     人を尋ぬるに遇はず
       賈島
    説を聞くに揚州に到る、
    簫を吹くに舊游の有り。
    人來、多く見ず、
    是れ、迷樓に上ること莫かれ。

  【我が儘勝手な私訳】
    噂を聞いて、遥々、揚州へとやって来た、
    笛が奏でる音楽を聞くと、嘗ての揚州旅遊を思い出した。
    訪問者が多く来ると言うので、肝心の尋ね人に会見が出来なかった。
    それでは、わざわざ、隋の煬帝が建てた迷樓に登る気にもならない。

○「尋人不遇」自体は、当時流行った詩題であったらしく、白居易にも「晩出尋人不遇」の佳詩がある。

     晩出尋人不遇
        白居易
    籃輿不乘乘晩涼
    相尋不遇亦無妨
    輕衣穩馬槐陰下
    自要行一兩坊

○また、賈島には、別に『尋隱者不遇』詩が存在し、「百度百科」が案内するほど、知られた詩である。

  【原文】
    尋隱者不遇
       賈島
    松下問童子
    言師采藥去
    只在此山中
    雲深不知處

  【書き下し文】
      隱者を尋ぬるに遇はず
         賈島
    松下童子に問ふ、
    言ふるに師は藥を采るに去る。
    只だ此の山中に在りて、
    雲は深く處を知らずと。

  【我が儘勝手な私訳】
    大松の茂るところで、若者に出遭い、隠者の在処を尋ねた。
    若者が応えることには、先生は薬草採りに出掛けて今は不在ですと。
    何しろその山は、鬱蒼とした山であって、隠者は其処に居ると言うけれども、
    深い雲に覆われていて、到底、隠者を捜すことなど出来そうにない。

○ 隋の煬帝の迷楼は、大明寺の近くに存在したと言う。賈島の「尋人不遇」詩で、賈島が来訪したのは、大明寺の僧侶であったような気がする。嘗て鑑真和上が住持した寺である。もっとも、鑑真和上は753年に日本へ渡っているから、鑑真和上では無い。賈島が生まれたのは鑑真和上の死後の779年である。

○隋の煬帝の迷楼は、大明寺から目と鼻の先である。賈島の落胆振りを窺い知ることが出来る。2013年10月、2014年6月と、これまで2回、揚州大明寺を訪れている。賈島と違って、多くの文人を知り、多くの文学に出遭えた。揚州文学は、なかなか奥が深い。

李商隱:隋宮七言絶句

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○「揚州詩咏」(李保華著)は、李商隱の『隋宮七言律詩』を載せるけれども、李商隱には、『隋宮七言律詩』とともに、『隋宮七言絶句』が存在する。まず、『隋宮七言絶句』を案内したい。

  【原文】
      隋宮
        李商隱
    乘興南游不戒嚴
    九重誰省諫書函
    春風舉國裁宮錦
    半作障泥半作帆

  【書き下し文】
      隋宮
        李商隱
    興に乘りて南游するも、戒嚴ならず、
    九重、誰か、諫書の函を省みん。
    春風國を舉げて、宮錦を裁ち、
    半ば障泥を作り、半ば帆を作る。

  【我が儘勝手な私訳】
    隋の煬帝は輿に乗って揚州江都宮へ巡幸したが、警護はまるで軽微なものだった、
    忠諫の士は既に煬帝に殺され、宮中にはそのことを忠告する者さえ残っていない。
    隋の煬帝は、春爛漫の東風の中、国中の風華流美を江都宮に集結させ、
    その半分で騎馬を飾り、残りの半分で豪華な飾り船を作ったと言う。

○中国の検索エンジン百度の「百度百科」には『隋宮』項目として、
  ‥眤緲隐七言绝句
  唐代李商隐七言律诗
  清代陈恭尹七言律诗
の三項目を掲載している。その「唐代李商隐七言绝句」は、次の通り。

      唐代李商隐七言绝句
   七绝《隋宫》是唐代诗人李商隐的作品。此诗选取典型题材,讽咏隋炀帝杨广奢侈嬉游之事。首二句
  写炀帝任兴恣游,肆行无忌,且滥杀忠谏之士,遂伏下杀身之祸。次二句取裁锦一事写其耗费之巨,将
  一人与举国、宫锦与障泥和船帆对比,突出炀帝之骄奢淫逸。然而全诗无一议论之语,于风华流美的叙
  述之中,暗寓深沉之虑,令人鉴古事而思兴亡。全诗在艺术方法上将实写与虚写巧妙地运用在一起,一
  实一虚展示了前朝皇帝与当朝皇帝的昏庸,讽刺意味浓厚,具有力度,此诗长于思想性,不失为政治讽
  刺诗佳作。
  http://baike.baidu.com/subview/162817/9499233.htm#viewPageContent

○2013年10月、2014年6月と、これまで2回、揚州大明寺を訪れている。大明寺の東、およそ500辰里箸海蹐法観音山があって、そこが隋の煬帝の江都宮跡だとされる。近くには、唐城遺址博物館も存在する。時間が無くて、残念ながら、まだ未見である。

○ついでに、「百度百科」が案内する『唐城遺址博物館』も載せておく。

      唐城遗址博物馆
   唐城遗址博物馆,扬州唐城遗址为全国重点文保单位,是1979年建立的从事对扬州唐城遗址进行保护、
  唐代文物征集、收藏和保管、唐代扬州历史文化研究的专业博物馆。博物馆坐落在唐衙城遗址的西南角、
  隋炀帝行官的旧址上,馆内藏有陶瓷器、铜器、金银器等唐代扬州各类出土文物三百余件。
  http://baike.baidu.com/view/794627.htm?fr=aladdin

○揚州には見所が多い。一回や二回揚州を訪れたところで、到底、全てを見尽くすことなど、出来ない。

李商隱:隋宮七言律詩

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○前回の李商隱『隋宮七言絶句』詩に引き続き、今回は『隋宮七言律詩』を案内する。

  【原文】
      隋宮
        李商隱
    紫泉宮殿鎖煙霞
    欲取蕪城作帝家
    玉璽不縁歸日角
    錦帆應是到天涯
    於今腐草無螢火
    終古垂楊有暮鴉
    地下若逢陳後主
    豈宜重問後庭花

  【書き下し文】
      隋宮
        李商隱
    紫泉の宮殿は、煙霞に鎖られ、
    蕪城を取らんと欲して、帝家を作す。
    玉璽は縁らずして、日角に歸し、
    錦帆は應に是れ天涯に到るべし。
    今に於けるや、腐草に螢火無く、
    終古、垂楊、暮鴉の有り。
    地下にて若し陳後主に逢はば、
    豈に宜しく重ねて問はん、後庭の花。

  【我が儘勝手な私訳】
    隋の都、長安の宮殿に皇帝は居ないで、空しく煙雲が漂うばかり、
    隋の煬帝は揚州を我が物にしたいと願って、豪華な離宮を造営した。
    その結果、隋の煬帝は皇帝の地位を唐の高祖李淵に奪われ、
    豪華な大船に乗って、隋の煬帝はまさにあの世まで行ったのであろう。
    今では、嘗ての景華宮のように、蛍が乱舞する光景を見ることも無く、
    嘗て人々が競って植えた楊柳には、夕暮れ時の鴉が留まり啼いている。
    もし、隋の煬帝があの世で陳後主陳叔寶と出遭うとするならば、
    どうして、当然、同じように尋ねずにはいられない、後宮の美女達のことを。

○李商隱の『隋宮七言律詩』は、相当に難解な詩である。相応の知識が無い限り、この詩を理解することはなかなか難しい。その点、中国の検索エンジン百度の「百度百科」の『隋宫(唐代李商隐七言律詩)』は、頗る参考になる。

      隋宫(唐代李商隐七言律诗)
   七律《隋宫》是唐代诗人李商隐创作的一首咏史吊古诗,内容虽是歌咏隋宫,其实乃讽刺隋炀帝杨广
  的荒淫亡国。此诗写隋炀帝为了寻欢作乐,无休止地出外巡游,奢侈昏庸,开凿运河,建造行宫,劳民
  伤财,终于为自己制造了亡国的条件,成了和陈后主一样的亡国之君。讽古是为喻今,诗人把隋炀帝当
  作历史上以荒淫奢华著称的暴君的典型,来告诫晚唐的那些荒淫腐朽、醉生梦死的统治者。全诗采用比
  兴手法,写得灵活含蓄,色彩鲜明,音节铿锵。
  http://baike.baidu.com/subview/162817/9499234.htm#viewPageContent

○詩中、陳後主とは、陳後主陳叔寶を指す。「百度百科」が案内する陳叔寶は、次の通り。

      陈叔宝
   陈后主陈叔宝(553—604年),字元秀,南朝陈最后一位皇帝。公元582年—589年在位,在位时大建宫
  室,生活奢侈,不理朝政,日夜与妃嫔、文臣游宴,制作艳词。隋军南下时,自恃长江天险,不以为然。
  589年(祯明三年),隋军入建康,陈叔宝被俘。后在洛阳城病死,终年52岁,追赠大将军、长城县公,
  谥曰炀,葬于洛阳邙山 。
  http://baike.baidu.com/view/215044.htm?fr=aladdin

○その陳後主陳叔寶に、『玉樹後庭花』詩がある。
    玉樹後庭花
      陳叔寶
  麗宇芳林對高閣
  新妝艷質本傾城
  映戶凝嬌乍不進
  出帷含態笑相迎
  妖姬臉似花含露
  玉樹流光照後庭
  花開花落不長久
  落紅滿地歸寂中

○そういうことを全部踏まえて、李商隱の『隋宮七言律詩』は成立している。うんざりするほど勉強しないと李商隱の『隋宮七言律詩』は読めない。ほとんど、それは玄言詩に近い。

陳恭尹:隋宮

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○李商隱の『隋宮七言絶句』、『隋宮七言律詩』と紹介してきた。中国の検索エンジン百度の「百度百科」には『隋宮』項目として、
  ‥眤緲隐七言绝句
  唐代李商隐七言律诗
  清代陈恭尹七言律诗
の三項目を掲載している。「揚州詩咏」(李保華著)も、もちろん、陳恭尹の『隋宮』を清代に載せている。ここで、李商隱の作品に続けて、陳恭尹の『隋宮』も案内しておきたい。

  【原文】
      隋宮
        陳恭尹
    谷洛通淮日夜流
    渚荷宮樹不曾秋
    十年士女河邊骨
    一笑君王鏡裡頭
    月下虹霓生水殿
    天中絲管在迷樓
    繁華往事邗溝外
    風起楊花無那愁

  【書き下し文】
      隋宮
        陳恭尹
    洛の谷は淮へと通じ、日夜流る、
    渚荷宮の樹、曾ての秋ならず。
    十年に士女、河邊の骨となり、
    一笑する君王、鏡裡の頭。
    月下の虹霓は、水殿を生じ、
    天中の絲管は、迷樓に在り。
    繁華は往事、邗溝の外、
    風起つ楊花、無那の愁。

  【我が儘勝手な私訳】
    洛陽の谷水は大運河を経て、淮河へと通じ、一日中流れている。
    隋宮の樹に、昔と変わらず今年も秋が訪れたが、それは昔の秋とは違う。
    隋の煬帝に仕えた武将や後宮の女達も、今では汴河の畔で骨となり、
    鏡に映る自分を眺めて大笑いした隋の煬帝も、今は居ない。
    月明かりの下に浮かぶ虹は、嘗て水上の宮殿を浮かび上がらせ、
    そこら中に広がる管弦の音楽は、嘗て揚州迷楼の名物であった。
    今では揚州の栄華は昔話となり、大運河だけが残り、
    枝垂れ柳の枝を風が吹き渡ると、果てしない愁いが湧き起こる。

○陳恭尹は、日本では、あまり馴染みの無い詩人である。「百度百科」が案内する陳恭尹は、次の通り。

      陈恭尹
   陈恭尹(1631 ~1700)字元孝,初号半峰,晚号独漉子,又号罗浮布衣,汉族,广东顺县(今佛
  山顺区)龙山乡人。著名抗清志士陈邦彦之子。清初诗人,与屈大均、梁佩兰同称岭南三大家。又工
  书法,时称清初广东第一隶书高手。有《独漉堂全集》,诗文各15卷,词1卷。
  http://baike.baidu.com/view/79959.htm?fr=aladdin

○上記説明を読むと判ることだが、陳恭尹もまた、明末、清初の乱世に生きた詩人である。陳恭尹の『隋宮』詩に、深い悲壮感を感じるのは、そういう詩人の生涯が関係しているのかも知れない。

晏殊:浣溪沙・一曲新詞酒一杯

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○「揚州詩咏」(李保華著)が宋代の冒頭に掲げている作品が晏殊の「浣溪沙」詞である。「揚州詩咏」が、『晏殊作の浣溪沙詞』と記載するほど、晏殊の『浣溪沙・一曲新詞酒一杯』詞は、浣溪沙として著名な詞であることが判る。

○本来、『浣溪沙』は詞名である。中国の検索エンジン百度の「百度百科」が案内する『浣溪沙』は、次の通り。

      浣溪沙
   浣溪沙,唐代教坊曲名,后用为词牌。分平仄两体,字数以四十二字居多,还有四十四字和四十六字
  两种。最早采用此调的是唐人韩偓,通常以其词为正体,另有四种变体。全词分两片,上片三句全用韵,
  下片末二句用韵。此调音节明快,为婉约、豪放两派词人所常用。代表作有晏殊的《浣溪沙·一曲新词
  酒一杯》、苏轼的《浣溪沙·照日深红暖见鱼》、秦观的《浣溪沙·漠漠轻寒上小楼》、辛弃疾的《浣溪
  沙·常山道中即事》等。
  http://baike.baidu.com/view/74032.htm?fr=aladdin

○晏殊の『浣溪沙・一曲新詞酒一杯』詞は、次の通り。

  【原文】
      浣溪沙
         晏殊
    一曲新詞酒一杯
    去年天氣舊亭台
    夕陽西下幾時回
    無可奈何花落去
    似曾相識燕歸來
    小園香徑獨徘徊

  【書き下し文】
      浣溪沙
         晏殊
    一曲の新詞に、酒一杯、
    去年の天氣、舊亭台。
    夕陽は西下に、幾時回る。
    奈何すべくも無し、花の落去するは。
    曾て相識るに似る、燕の歸來するは。
    小園の香徑を、獨り徘徊す。

  【我が儘勝手な私訳】
    嘗て、曲水の宴では、一詩を作った人だけが、酒の一杯を飲むことが出来た。
    その昔と全く同じように、澄んだ空が宴の有った古い高殿の上に広がっている。
    それから今に至るまで、太陽は東から西へと、その空を何回巡ったことだろうか。
    どうすることもできない、花が咲き、そして散っていくことは。
    幾度と無く経験している、燕が南から訪れ、また去っていくことを。
    嘗て隋宮の存在したと言う辺りの花の咲く小径を、私は一人、今寂しく歩いている。

○晏殊は、日本ではあまり馴染みの無い詞人である。「百度百科」が案内する晏殊は、次の通り。

      晏殊
   晏殊(991-1055),字同叔,汉族,抚州临川(今属江西进贤县文港镇沙河)人,北宋政治家、文学家。
   晏殊十四岁以神童入试,赐同进士出身,命为秘书省正字,迁太常寺奉礼郎、光禄寺丞、尚书户部员
  外郎、太子舍人、翰林学士、左庶子。仁宗即位后,迁右谏议大夫兼侍读学士加给事中,进礼部侍郎,
  拜枢密使、参知政事加尚书左丞,庆历中拜集贤殿学士、同平章事兼枢密使、礼部刑部尚书、观文殿大
  学士知永兴军、兵部尚书,封临淄公,谥号元献,世称晏元献。晏殊历任要职,更兼提拔后进,如范仲
  淹、韩、欧阳修等,皆出其门。
   晏殊以词著于文坛,尤擅小令,风格含蓄婉丽,与其子晏几道,被称为“大晏”和“小晏”,又与欧
  阳修并称“晏欧”;亦工诗善文,原有集,已散佚。存世有《珠玉词》、《晏元献遗文》、《类要》残本。
  http://baike.baidu.com/view/7329.htm

○インターネットで、晏殊の『浣溪沙・一曲新詞酒一杯』詞を検索していたら、面白い記事を見付けた。

      「烟花三月,诗意扬州(关于扬州的名人诗句)」
   晏殊有名句“无可奈何花落去,似曾相识燕归来。”他在扬州留下这首词时,同时留下了一段佳话:
  晏殊过扬州,在大明寺小憩,闭目养神时,叫侍从给他念墙上的诗。听了几首都是没等念完就被他打断
  了。但念到江都尉王淇的《九曲池》时却大为赞赏,立即派人召王淇来一同进餐。餐后又一同散步。当
  时已是晚春,已有落花。晏殊说,每当我灵感来了,有了好诗句便先写到墙上,但有的写到墙上一年了,
  也没想好下句,比如“无可奈何花落去”,就至今未能得到下句。王淇马上应道:“似曾相识燕归来。”
  这才成就了这首流芳千古的《浣溪纱》。
  http://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MjM5NTQyOTE5Mw==&mid=200068860&idx=1&sn=6bfcabd3f26d202331b2bca43af1ecc5

○晏殊の『浣溪沙・一曲新詞酒一杯』詞の眼目が、
  無可奈何花落去    奈何すべくも無し、花の落去するは。
  似曾相識燕歸來    曾て相識るに似る、燕の歸來するは。
にあることは、誰もが認めるところであろう。その創作の経緯を上記の文は案内する。あくまで、伝説であって、真偽のほどは、明らかでは無いが。

○また、上記の「烟花三月,诗意扬州(关于扬州的名人诗句)」を掲載しているのが、2014年6月に私の泊まった扬州国际青年旅舍である偶然に驚く。こんなことなら、扬州国际青年旅舍でもう少し詳しく話が聞けたであろうに。全く以て、残念な話である。

○「烟花三月,诗意扬州(关于扬州的名人诗句)」は、また、簡単な揚州文学案内ともなっていて、大いに勉強になった。

張祜:縱游淮南

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○「揚州詩咏」(李保華著)を読んで、揚州文学を紹介している。前回は、晏殊の「浣溪沙・一曲新詞酒一杯」を案内した。時代が前後するけれども、今回案内するのは、張祜「縱游淮南」詩である。

  【原文】
       縱游淮南
         張祜
    十里長街市井連
    月明橋上看神仙
    人生只合揚州死
    禪智山光好墓田

  【書き下し文】
       淮南を縱游す
         張祜
    十里の長街、市井の連なり、
    月明橋の上、神仙を看る。
    人生は只だ揚州に合し、死せん、
    禪智山光は、墓田に好し。

  【我が儘勝手な私訳】
    揚州の繁華街は十里と長く、何処までも町中が続いているし、
    禅智寺前の月明橋の上には、妓女たちが戯れているが見える。
    淮南、揚州の町はまことに、人が生活し、生きていくのに相応しい町であるし、
    淮南、揚州に存在する禪智寺や山光寺は、墓所にも申し分なく、佳い。

○日本のウィキペディアフリー百科事典にも、簡単な張祜の案内がある。

      張祜
   張祜(ちょう こ、782年? - 852年?)は、中国・唐代の詩人。山陽(河南省)の出身。字は承吉。
  【略歴】
   憲宗の元和15年(820年)頃、令狐楚が朝廷に推薦して官僚にしようとしたが果たさず、高官の家
  に寄食したが、妥協を好まぬ性格のため、自分から家を出た。
   その後、淮南の地方を旅して曲阿の風物を愛し、丹陽(江蘇省)に家を建てて住んだ。
   『張承吉文集』10巻がある。
   作品に、『雨淋鈴(うりんれい)』(七言絶句)、『集霊台(しゅうれいだい)』(七言絶句)が
  ある。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E3%82%B3

○詳しいのは、中国の検索エンジン百度の「百度百科」が案内する張祜である。

      张祜
   张祜(生卒年不详), 字承吉,邢台清河(一说山东州)人,唐代诗人。出生在清河张氏望族,
  家世显赫,被人称作张公子,有“海内名士”之誉。张祜的一生,在诗歌创作上取得了卓越成就。“故
  国三千里,深宫二十年”张祜以是得名,《全唐诗》收录其349首诗歌。
  【张祜简介】
   张祜(生卒年不详),字承吉,唐代诗人,清河(一说山东州)人。出生在清河张氏望族,家世显
  赫,被人称作张公子,初寓姑苏(今江苏苏州),后至长安,长庆中令狐楚表荐之,不报。辟诸侯府,
  为元稹排挤,遂至淮南,爱丹阳曲阿地,隐居以终,生卒年已不可考。
  http://baike.baidu.com/view/68822.htm?fr=aladdin

○もともと河北省邢台市清河県の人であったが、江南の地を愛し、江蘇省丹阳市を終の住処とした。曲阿は丹阳の別名である。張祜の「縱游淮南」詩には、そういう張祜の江南に対する憧憬が窺える。

○「縱游淮南」詩中、『禪智山光』は、揚州の北部に嘗て存在した寺の名である。別に、張祜には「禅智寺」詩もある。

    禅智寺
     張祜
  寶殿依山嶮,臨虛勢若吞。
  畫簷齊木末,香砌壓雲根。
  遠景窗中岫,孤煙竹里村。
  憑高聊一望,鄉思隔吳門。

○揚州禅智寺は、嘗て杜牧が滞在した寺でもある。杜牧には「題揚州禅智寺」詩がある。以前書いているので、そちらを参照されたい。
  ・書庫「 鑑真和上の揚州」:ブログ『杜牧:題揚州禅智寺』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38832001.html

○「百度百科」が案内する張祜項目の中に、
  张祜谢世后,太常博士皮日休送挽诗:“一代交游非不贵,五湖风月合教贫,魂应绝地为才鬼,
  名与遗篇在史臣”。
とあるけれども、『一代交游非不贵,五湖风月合教贫,魂应绝地为才鬼,名与遗篇在史臣』は、陸龜蒙の「和過張祜處士丹陽故居」詩の一節である。
    和過張祜處士丹陽故居
       陸龜蒙
  勝華通子共悲辛,荒徑今為舊宅鄰。
  一代交游非不貴,五湖風月合教貧。
  魂應絕地為才鬼,名與遺編在史臣。
  聞道平生多愛石,至今猶泣洞庭人。

○同じく、「百度百科」は、杜牧の「酬張祜處士」詩を紹介している。
    酬張祜處士
       杜牧
  七子論詩誰似公,曹劉須在指揮中。
  薦衡昔日知文舉,乞火無人作蒯通。
  北極樓台長掛夢,西江波浪遠吞空。
  可憐故國三千里,虛唱歌詞滿六宮。

○これらの詩を読むと、如何に張祜が同時代の詩人に尊崇されていたかを知ることが出来る。

蘇轍:揚州五詠・九曲池

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○「揚州詩咏」(李保華著)には、ただ、蘇轍の「九曲池」とのみ載せるが、実際は「揚州五詠・九曲池」として組詩である。その中で、「九曲池」は冒頭詩となっている。
    《扬州五咏 九曲池》
  嵇老清弹怨广陵,隋家水调继哀音。
  可怜九曲遗声尽,惟有一池春水深。
  凤阙萧条荒草外,龙舟相像绿杨阴。
  都人似有兴亡恨,每到残春一度寻。
    《扬州五咏 平山堂〈欧阳永叔所建。〉》
  堂上平看江上山,晴光千里对凭栏。
  海门仅可一二数,云梦犹然八九宽。
  檐外小棠阴蔽芾,壁间遗墨涕泛澜。
  人亡坐使风流尽,遗构仍须子细观。
    《扬州五咏 蜀井〈在大明寺。〉》
  信脚东游十二年,甘泉香稻忆归田。
  行逢蜀井恍如梦,试煮山茶意自便。
  短绠不收容盥濯,红泥仍许置清鲜。
  早知乡味胜为客,游宦何须更着鞭。
    《扬州五咏 摘星亭〈迷楼旧址。〉》
  阙角孤高特地迷,迷藏浑忘日东西。
  江流入海情无限,莫雨连山醉似泥。
  梦里兴亡应未觉,后来愁思独难齐。
  只堪留作游观地,看遍峰峦处处低。
    《扬州五咏 僧伽塔》
  山头孤塔閟真人,云是僧伽第二身。
  处处金钱追晚供,家家蚕麦保新春。
  欲求世外无心地,一扫胸中累劫尘。
  方丈近闻延老宿,清朝留客语逡巡。

○蘇轍が組詩「揚州五詠」で詠うのは、現在の揚州大明寺付近の風景である。ここに隋の煬帝、楊広の離宮、隋宮が存在した。隋宮詩については、これまで幾つか案内している。
  ・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『李商隱:隋宮七言絶句』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39256125.html
  ・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『李商隱:隋宮七言律詩』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39258500.html
  ・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『陳恭尹:隋宮』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39260875.html

○蘇轍の「揚州五詠・九曲池」詩は、次の通り。

  【原文】
      揚州五詠・九曲池
         蘇轍
    嵆老清彈怨廣陵
    隋家水調繼哀音
    可憐九曲遺聲盡
    惟有一池春水深
    鳳闕蕭條荒草外
    龍舟相像楊陰
    都人似有興亡恨
    毎到殘春一度尋

  【書き下し文】
      揚州五詠・九曲池
        蘇轍
    嵆老の清彈しては、廣陵を怨み、
    隋家の水調しては、哀音を繼ぐ。
    九曲の遺聲の盡くを憐れむべし、
    惟だ一池のみ有りて、春水の深し。
    鳳闕は蕭條として、荒草の外、
    龍舟は相像す、楊の陰。
    都人の、興亡の恨み有るに似る、
    殘春の到る毎に、一度は尋ねん。

  【我が儘勝手な私訳】
    嵆康は琴を弾いては、楽曲、廣陵散の素晴らしさを嘆き、
    隋朝に、隋の煬帝、楊広が作った水調の調べは悲しい音を奏でている。
    嘗て、ここに九曲池が存在し、九曲亭が建っていたと言う話だが、
    今では、九曲池の名残の池水があるだけで、春の水を満々と湛えている。
    隋朝の宮殿址はひっそりとしてもの寂しく、ただ雑草が生い茂り、
    嘗て隋の煬帝の飾り船が浮かんでいた池面には、青々と枝垂れ柳の影を見る。
    あたかもそれは、華麗な都人が興廃盛衰を嘆くかのようである、
    残り少なくなった春の季節になったら、毎年、一回は尋ねてみる価値がある。

○蘇轍の「揚州五詠・九曲池」詩は、なかなか難しい詩である。竹林の七賢人の一人である嵆康を理解し、廣陵散を理解しないでは、冒頭句すら、満足に理解出来ない。それは次句の水調にしたところで同じである。蘇轍の「揚州五詠・九曲池」詩には、まるで玄言詩の風情と風格がある。

○2014年6月に揚州を訪問した。2013年10月に引き続き、二回目の訪問である。痩西湖から大明寺を望むと、栖霊塔が見えた。痩西湖の中に波光亭と言う建物を見付けた。この波光亭が九曲亭を再現したものであると言うのを、後で知った。

王:九曲池

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○前回、蘇轍の「九曲池」詩を案内した。しかし、中国の検索エンジン百度の「百度百科」で『九曲池』を検索すると、王の「九曲池」詩が案内されて、蘇轍の「九曲池」詩は掲載されていない。

      九曲池
   《九曲池》是 宋 代诗人 王 所作诗词之一。
  【诗词正文】
     越调隋家曲,当年亦九成。
     哀音已亡国,废诏尚留名。
     仪凤终沉影,鸣蛙祇沸声。
     凄凉不可问,落日背芜城。
  http://baike.baidu.com/view/11709728.htm?fr=aladdin

○逆に、「揚州詩咏」(李保華著)には、蘇轍の「九曲池」詩はあるけれども、王の「九曲池」詩が掲載されていない。折角であるから、今回は、王の「九曲池」詩を案内したい。

  【原文】
      九曲池
       王
    越調隋家曲
    當年亦九成
    哀音已亡國
    廢詔尚留名
    儀鳳終沈影
    鳴蛙祇沸聲
    淒涼不可問
    落日背蕪城

  【書き下し文】
      九曲池
       王
    隋家の曲は、越の調べ、
    當年、亦た九成なる。
    哀音、已に國を亡ひ、
    廢詔、尚ほ名を留む。
    儀鳳、終に影を沈め、
    鳴蛙、祇だ聲の沸くのみ。
    淒涼、問ふべからず、
    落日、蕪城を背にす。

  【我が儘勝手な私訳】
    大運河が完成し、隋王朝の楽曲に越国の調べが加わり、
    その頃、また都長安では九成宮が出来上がった。
    隋王朝の悲しい音楽は、既に国を失った調べとなり、
    隋王朝の詔勅は廃され、今では過去のものとなっている。
    隋の煬帝、楊広が揚州の九曲池を訪れることも無くなり、
    今では、九曲池には、只だ蛙の鳴き声が響き渡っている。
    揚州、九曲池の寂寥感は、何とも言葉にならないほどで、
    ちょうど夕陽は、揚州の町を赤々と照らして沈んで行く。

○王は、日本ではほとんど知られていない詩人である。「百度百科」が案内する王項目は、次の通り。

      王(北宋礼部侍郎)
   王,字君玉,华阳(今四川 成都)人,徙舒(今安徽庐江)。王罕之子,王珪从兄。进士及第,
  曾任江都主簿。天圣三年(1025)上时务十事,得仁宗嘉许,命试学士院,调入京城任馆阁校勘,授大
  理评事、馆阁校勘、集贤校理,知制诰。嘉佑中,守平江府,数临东南诸州。任姑苏郡守时,修建官衙,
  向转运使司借款数千缗,无力偿还,政尚简静。
   嘉祐四年(1059年),王订刊刻王洙之《杜工部集》于苏州,并撰写《后记》,在序中对杜甫的
  “博闻稽古”加以肯定。《杜工部集》一次印一万部,“每部为直千钱,士人争买之,富室或买十许部”。
  有《谪仙长短句》,已佚。《宋史》附传王珪。今有周泳先辑《谪仙长短句》一辑。《全宋词》录其词
  十一首。他是著名的豪放派词人。
   以礼部侍郎致仕,年七十二卒。墓葬真州(今江苏仪征县)。
  http://baike.baidu.com/subview/206297/9235889.htm?fr=aladdin

○「百度百科」が案内するほどであるから、中国では、王の「九曲池」詩は知られた存在なのであろう。蘇轍の「九曲池」詩が格式張って、凝った詩であるのに対し、王の「九曲池」詩は懐古的で洒落た詩となっている。両者両様、どちらも佳詩である。

○2014年6月に揚州を訪問した。現在、九曲池は痩西湖の一部となっている。九曲宮は波光亭として、痩西湖の中に存在する。私が訪れた時には、蓮花が見事であった。

白居易:長相思

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○「揚州詩咏」(李保華著)には、白居易の作品として、「与夢得同登栖霊塔」詩と、「長相思」詞とを載せる。「与夢得同登栖霊塔」詩は、栖霊塔の連作を案内する際に、案内済みである。
  ・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『与夢得同登栖霊塔』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39168079.html

○別に、本ブログでは、白居易の「自詠」詩も、案内している。
  ・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『白居易:自詠』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39201092.html

○それで、「揚州詩咏」(李保華著)が載せる白居易の作品は全て案内したとばかり思っていた。しかし、実際は「揚州詩咏」(李保華著)が載せる白居易の「長相思」詞を紹介することを失念していたことに気付いた。今回は、その「長相思」詞を案内したい。

  【原文】
      長相思
        白居易
    汴水流,泗水流,流到瓜洲古渡頭。吳山點點愁。
    思悠悠,恨悠悠,恨到歸時方始休。月明人倚樓。

  【書き下し文】
      長相思
        白居易
    汴水は流れ、泗水は流れ、
      流れ到る瓜洲古渡の頭。吳山點點として愁ふ。
    思ふこと悠悠、恨むこと悠悠、
      恨みは到り歸る時、方に始めて休む。月明かりに人の樓に倚るあり。

  【我が儘勝手な私訳】
    汴水は河南省滎陽から鄭州、開封、商丘を経て淮水へ流れ注ぎ、
      泗水は山東省泗水県から曲阜、昭陽湖、駱馬湖、洪澤湖を経て淮水へと流れ注ぎ、
      汴水と泗水は淮水となった後、揚州の瓜洲港まで流れ到る。
      揚州では、長江の遙か彼方に呉山の山々が浮かんでいるのが見え、私を悩ませる。
    離れて暮らしていると、お互い、それぞれ、考えることも多いし、
      離れて暮らしていると、お互い、それぞれ、悩まされることも多い。
      旅人が帰って来ると言う時しか、まさに二人の悩みが消えることは無い。
      月明かりの中、高殿には離れた人を頻りに思う人の姿がある。

○中国では、川は西から東へ流れるものと決まっているらしい。そんな可笑しい話は無いと思われるかも知れないが、実際、中国の川は全て西から東へと流れている。中国では、太陽は東から西へと向かって空を渡り、川は西から東へと向かって流れている。嘘のような本当の話である。

○そういうことを知ったのは、天台山を訪れて、『丰干桥(豊干橋)』脇に、『一行到此水西流』の石碑を見てからである。話が長くなるので、詳しくは以下を参照されたい。
  ・書庫「天台山国清寺」:ブログ『一行到此水西流』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36480394.html

○淮水は中国第三の大河である。ずっと、淮水は東進し、黄海へ注いでいるとばかり思っていた。実際に揚州を訪れると、淮水は揚州で長江に注いでいることが判る。詳しくは、以下に書いているので参照されたい。
  ・書庫「鑑真和上の揚州」:ブログ『淮河と邗江』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38793228.html

○白居易の「長相思」詞は、汴水や泗水、淮水の流れで、『長相思』の思いを代弁させる。揚州から白居易の故郷である鄭州新鄭県まで汴水として、大運河は続いている。その思いを実に上手く表現している。

○嘗て、洛陽を訪れたことがある。その際、洛陽の南、龍門石窟を見学した。龍門石窟から伊河を挟んだ向かいに香山寺があって、そこに白居易のお墓が存在した。汴水から黄河を経て、伊河へ入れば、そのまま揚州から洛陽まで行けるのである。

○白居易の「長相思」詞での思い人は、故郷である鄭州新鄭県の人なのだろうか、それとも、都、洛陽の人なのだろうか。

賀鑄:晩雲高・太平時

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○「揚州詩咏」(李保華著)の、宋代に、賀鑄『晩雲高・太平時』詞を載せる。

  【原文】
      晩雲高
       賀鑄
    秋盡江南葉未凋,晩雲高。
    青山隱隱水迢迢,接亭皋。
    二十四橋明月夜,弭蘭橈。
    玉人何處教吹簫,可憐宵。

  【書き下し文】
      晩雲高
       賀鑄
    秋は江南に盡き、葉は未だ凋ならず、晚れの雲は高し。
    青山は隱隱として、水は迢迢たり、亭皋に接す。
    二十四橋、明月の夜、蘭橈に弭む。
    玉人、何れの處にか簫を吹かしむ、宵を憐れむべし。

  【我が儘勝手な私訳】
    秋は江南まで至っているけれども、落葉樹に葉は未だ残っていて、
      夕暮れ時、赤い雲が薄く高い空に刷毛で掃いたように見える。
    山には常緑樹が青々と生い茂り、川は滔々と遙か彼方まで流れ、
      川堤が何処までも、長く続いているのを見る。
    月が明るい夜、揚州の北部、二十四橋が架かる瘠西湖に、
      小舟に乗って、舟遊びすることがあった。
    嘗てここで一緒に遊んだ妓女たちは、今現在、何処で何をしているだろうか。
      秋の夕暮れ時と言うのは、何とも物悲しいものである。

○賀鑄の『晩雲高・太平時』詞の、詞題のうち、『晩雲高』の文言は詞中に存在するから、『太平時』が詞名なのだろうと思われる。中国のことなら、あれほど何でも載せている「百度百科」に、『太平時』項目が存在しないので、よく判らない。

○賀鑄の『晩雲高・太平時』詞を読み、訳しているうちに、この詞は何処かで読んだ記憶があるような気がした。それでブログを読み直してみたら、杜牧の「寄揚州韓綽判官」詩であることに気付いた。

    寄揚州韓綽判官
         杜牧
  山隱隱水遙遙    青山は隠隠として、水は遙遙たり。
  秋盡江南草木凋    秋は江南に盡きて、草木の凋む。
  二十四橋明月夜    二十四橋、明月の夜、
  玉人何處吹簫    玉人何れの処にて簫を吹かしむ。
  ・書庫「鑑真和上の揚州」:ブログ『杜牧:寄揚州韓綽判官』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38822365.html

○「百度百科」が案内する賀鑄は、次の通り。

      贺铸
   贺铸(1052~1125)北宋词人。字方回,自号庆湖遗老。汉族,祖籍山阴(今浙江绍兴),后迁卫州
  (今河南卫辉市)。宋太祖贺皇后族孙,所娶亦宗室之女。自称远祖本居山阴,是唐·贺知章后裔,以
  知章居庆湖(即镜湖),故自号庆湖遗老。
   贺铸长身耸目,面色铁青,人称贺鬼头,曾任右班殿直,元佑中曾任泗州、太平州通判。晚年退居苏
  州,杜门校书。不附权贵,喜论天下事。能诗文,尤长于词。其词内容、风格较为丰富多样,兼有豪放、
  婉约二派之长,长于锤炼语言并善融化前人成句。用韵特严,富有节奏感和音乐美。部分描绘春花秋月
  之作,意境高旷,语言浓丽哀婉,近秦观、晏几道。其爱国忧时之作,悲壮激昂,又近苏轼。南宋爱国
  词人辛弃疾等对其词均有续作,足见其影响。
  http://baike.baidu.com/view/68729.htm

○賀鑄(1063~1120)の『晩雲高・太平時』詞と、杜牧(803~853)の「寄揚州韓綽判官」詩とを比べると判ることだが、賀鑄の『晩雲高・太平時』詞は杜牧の「寄揚州韓綽判官」詩を、そのまま利用して作詞されたものである。

○杜牧の「寄揚州韓綽判官」詩は、誰もが知る名詩である。それを賀鑄はこのようにして詞に作り替えている。詩と違い、詞はまた別の世界を見せている。そのところが何とも面白い。賀鑄の企画は大成功したのではないか。

賀鑄:夢江南·九曲池頭三月三

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○前回、賀鑄の『晩雲高・太平時』詞を案内した。その賀鑄に『夢江南·九曲池頭三月三』詞がある。中国の検索エンジン百度の「百度百科」が案内する『夢江南·九曲池頭三月三』は、次の通り。

      梦江南·九曲池头三月三
   九曲池头三月三,柳毵毵。香尘扑马喷金衔,涴春衫。
   苦笋鲥鱼乡味美,梦江南,阊门烟水晚风恬,落归帆。
  【词牌】
   这里的《梦江南》,即《太平时》。贺铸因这首词有“苦笋鲥鱼乡味美,梦江南”句而改名。
   与又名《梦江南》之《忆江南》调无关。
  【鉴赏】
   这首词下片语及“阊门”和“江南”,阊门,是苏州的西城门,想必是指贺铸曾长期居住过的苏州。
  可上片开首提到的“九曲池”颇有些费解。苏州并无九曲池。《建康志》云:九曲池“在台城东宫城内,
  梁昭明太子所凿。”而长安有曲江池,为都中第一胜景,开元、天宝年间上巳日(三月初三)游人云集,
  盛况空前。五代后蜀花蕊夫人宫词云:“龙池九曲远相通,杨柳丝牵两岸风。”花蕊夫人写的是蜀中。
  其实读词不必处处指实,贺铸是个善于融汇前人诗句诗意的高手。建康有九曲池,长安有曲江池,蜀中
  有所谓龙池九曲,贺词中的九曲池当是指京都汴京的游览胜地,是意指,非实指。
  http://baike.baidu.com/view/2746378.htm?fr=aladdin

○賀鑄の『夢江南·九曲池頭三月三』詞は、汴京の九曲池のほとりで、江南の蘇州を懐かしんだ詞であるとされる。だから、直接、揚州とは関係無いのだが、江南の詞でもあるので、ついでに、ここに掲載しておきたい。

○前回、『太平時』詞がどういうものか、よく判らないと書いたけれども、上記説明にあるように、『太平時』詞は『夢江南』詞の別名であることが判る。

○賀鑄の『夢江南·九曲池頭三月三』詞は、次の通り。

  【原文】
      夢江南
       賀鑄
    九曲池頭三月三、柳毿毿。
    香塵撲馬噴金銜、涴春衫。
    苦筍鰣魚鄉味美、夢江南。
    閶門煙水晚風恬、落歸帆。

  【書き下し文】
      江南を夢む
       賀鑄
    九曲池頭、三月三、柳は毿毿たり。
    香塵や撲馬、噴金の銜、春衫を涴す。
    苦筍と鰣魚は、鄉味の美し、江南を夢む。
    閶門の煙水、晚に風は恬み、歸帆の落つ。

  【我が儘勝手な私訳】
    汴京の九曲池のほとり、三月三日には柳の枝葉が細長く、柔軟に風に靡いている。
    妓女たちの後を追う飾り馬に乗る若者は、春の上着を汚しながら駆けている。
    苦筍と鰣魚は江南の御馳走で、大変美味しい、その江南が何とも懐かしい。
    蘇州西門である閶門には煙霧が懸かり、春の夕暮れ時に風は止み、
      帰る舟の白い帆が点々と続いているのが見える。

○詞中、『九曲池』とあるけれども、この池は揚州ではなく、汴京にあったものとされる。もともと、『九曲』の名自体が黄河流域の元宵節の民俗活動だとされる。

      九曲(黄河流域元宵节民俗活动)
   九曲,全称是黄河九曲灯阵,也叫黄河龙门阵,俗称转九曲,是黄河流域元宵节的一种民俗活动,如
  河北隆化、山西柳林等地。依地域不同,九曲中设有的东西也不相同,有四季、二十四节气等等。黄河
  九曲灯是由古战场中的黄河九曲阵演变而来。传说《封神演义》中赵公明妹妹姬宵、碧宵、琼宵为破敌
  摆过此阵。灯阵中有365盏灯,即是阵中365名带兵头目,每个头目带兵3名,全阵共1095名兵丁守阵,
  中心(天灯)指挥官用红绿旗指挥,变化阵势,使敌方陷入阵中,迷若瀚海,手足无措,后被民间艺人演
  变为黄河九曲灯会。
  http://baike.baidu.com/subview/62661/11173326.htm

○中国には、
  ・上有天堂下有苏杭。    上に天堂有り、下に蘇杭有り。
の言葉がある。つまり、蘇州杭州は地上の楽園だと言うことだろう。それ程、江南の地は中国人にとって、憧れの地である。詞碑『夢江南』は、そういう江南を詠った詞である。

陸游:寄題揚州九曲池

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○これまで、揚州九曲池に関して、
  ・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『蘇轍:揚州五詠・九曲池』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39267555.html
  ・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『王:九曲池』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39269575.html
と案内してきた。今回紹介するのは、陸游の『寄題揚州九曲池』詩である。もちろん、「揚州詩咏」(李保華著)も、しっかり、『寄題揚州九曲池』詩を載せている。

  【原文】
      寄題揚州九曲池
         陸游
    清汴長淮莽蒼中
    揚州畫戟擁元戎
    南連近甸觀秋稼
    北撫中原掃夕烽
    茶發蜀岡雷殷殷
    水通隋苑月溶溶
    懸知帳下多豪傑
    一醉何因及老農

  【書き下し文】
      揚州九曲池に題を寄す
         陸游
    汴は清く淮は長く、莽蒼の中。
    揚州の畫戟に、元戎を擁す。
    南は近甸を連ね、秋稼を觀る、
    北は中原を撫し、夕烽を掃く。
    茶は蜀岡に發し、雷の殷殷たり、
    水は隋苑に通じ、月の溶溶たり。
    懸ねて知る帳下に、豪傑の多く、
    一醉は何に因りてか、老農に及ぶを。

  【我が儘勝手な私訳】
    汴水は青々と清らかに流れ、淮水も青々と長く続いている。
    揚州九曲池を画策するのに、淮南東路節度使、郭杲を用いた。
    揚州郊外には田園が広がり、今ちょうど秋の収穫の時期であり、
    揚州北方の中原を常に睨み、お陰で戦いを未然に防いでいる。
    お茶は揚州蜀岡にその起源があり、その評判は雷のように鳴り響いているし、
    川の流れは嘗ての隋宮址から流れ来て、川面に月はゆったりとたゆたっている。
    揚州には優れた人物が多いと聞いているし、
    揚州の繁栄は、兎に角、万人に及んでいるとも聞く。

○「揚州詩咏」(李保華著)には、『寄題揚州九曲池』補注に、
   此詩為慶元六年(1200)陸游在山陰(今浙江紹興)時所作。九曲池及波光亭在紹興三十一年
  (1161)金兵南侵時被毀。「慶元五年(1199)、淮南東路節度使郭杲命工濬池。引諸塘水以
  注水。建亭于上、遂復旧現。又建于池北、築風台、月榭、東西対峙、繚以楊陰。」(「嘉靖淮揚志」)
とあって、作詩の経緯を述べている。

○2014年6月に揚州を訪れ、痩西湖を見物した。ちょうど、蓮花の季節で、見事な蓮花を痩西湖に見ることが出来た。痩西湖には波光亭が再現されていた。だから、現在の瘦西湖風景区、揚州旅游服務中心が存在するところあたりが嘗ての九曲池だろうと思われた。池には大明寺栖霊塔が映っていた。詳しくは以下を参照されたい。
  ・書庫「痩西湖・个園」:ブログ『揚州:瘦西湖』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39136502.html

○陸游は、日本でも知られた詩人である。ウィキペディアフリー百科事典が案内する陸游は、次の通り。

      陸游
   陸 游(りく ゆう、1125年11月13日(宣和7年10月17日) - 1210年1月26日(嘉定2年12月29日))
  は、南宋の政治家・詩人。字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰(現在
  の浙江省紹興市)出身。南宋の代表的詩人で、范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家のひとり。
  とくに范成大とは「范陸」と並称された。現存する詩は約9200首を数える。その詩風には、愛国的な
  詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面がある。強硬な対金主戦論者であり、それを直言するので官
  界では不遇であったが、そのことが独特の詩風を生んだ。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E6%B8%B8

○もちろん、もっと詳しいのは中国の検索エンジン百度『百度百科』である。

      陆游
   陆游(1125年—1210年),字务观,号放翁,汉族,越州山阴(今绍兴)人,南宋文学家、史学家、
  爱国诗人。
   陆游生逢北宋灭亡之际,少年时即深受家庭爱国思想的熏陶。宋高宗时,参加礼部考试,因秦桧排斥
  而仕途不畅。宋孝宗即位后,赐进士出身,历任福州宁县主簿、敕令所删定官、隆兴府通判等职,因
  坚持抗金,屡遭主和派排斥。乾道七年(1171年),应四川宣抚使王炎之邀,投身军旅,任职于南郑幕
  府。次年,幕府解散,陆游奉诏入蜀,与范成大相知。宋光宗继位后,升为礼部郎中兼实录院检讨官,
  不久即因“嘲咏风月”罢官归居故里。嘉泰二年(1202年),宋宁宗诏陆游入京,主持编修孝宗、光宗
  《两朝实录》和《三朝史》,官至宝章阁待制。书成后,陆游长期蛰居山阴,嘉定二年(1210年)与世
  长辞,留绝笔《示儿》。
   陆游一生笔耕不辍,诗词文俱有很高成就,其诗语言平易晓畅、章法整饬谨严,兼具李白的雄奇奔放
  与杜甫的沉郁悲凉,尤以饱含爱国热情对后世影响深远。陆游亦有史才,他的《南唐书》,“简核有法”,
  史评色彩鲜明,具有很高的史料价值。
  http://baike.baidu.com/view/2370.htm?fr=aladdin
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