○ここまで、ブログ『村井康彦著「出雲と大和」(岩波新書)』から『梅原猛:葬られた王朝~古代出雲の謎を解く~』、『出雲神の故郷』、『八雲立つ出雲の風景』と出雲神を追い続けて来た。
○梅原の『葬られた王朝』は、「古代出雲の謎を解く」と副題があるけれども、その割には出雲神に対する言及はまるでなされていない。それに対し、村井康彦の『出雲と大和』は丁寧に出雲神を探索していて、最終的に出雲神が磐座崇拝であることを看破している点は、大いに評価されるべきである。
○ただ、村井は出雲神が出雲国の神であると信じて疑わない。もっとも、出雲神の出身地に言及した論がこれまで存在したわけでも無いから、無理も無い話である。ただ、出雲神を追い続けると、出雲神は九州から東北地方まで日本全国に存在し、必ずしも出雲国だけの神では無いことに留意する必要がある。
○特に、大和国一宮が大神神社であり、その御祭神が大物主大神であり、出雲神であることなどを考えると、出雲神の出身地は出雲国では無いとするしかない。それで出雲神の故郷を追い求め続けた結果、辿り着いたのが鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であった。
○鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島では、「八雲立つ出雲の風景」が現在でも、日常的にみられる。それは何とも神々しい風景である。枕詞「八雲立つ出雲」が誕生する契機が此処には間違いなく存在する。
○出雲国の何処に「八雲立つ出雲の風景」が存在するであろうか。そういうふうに考えた場合、出雲国の何処にも「八雲立つ出雲の風景」は存在しないと言うしかない。やはり、「八雲立つ出雲の風景」は、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島のそれだと言うしかないのである。
○また、村井が「出雲と大和」で述べているように、出雲神が磐座崇拝であることは、硫黄島では、すでに江戸時代に「三国名勝図会」が次のように記録している。
【硫黄峯】(在番衙より、寅方、半里許)
此の峯硫黄を産するを以て、名を得たり。此の峯當島の東西にありて、海上より聳へ立ち、形状奇
高なり。土俗の説に、登り三里、下り一里といへども、大抵半里許もあるべし。山面都て焼け石に
て、草木生ぜず。山の中腹より上は、処々硫黄燃え上がり、山頂最も多く燃え出づ。硫黄の所出は、
時々変はり移りて、一方に多く出れば、一方は少なくなるといへり。此の島の絶頂に圓池あり。径り
十四五間深さ十四間、昔日は水ありしに今は常になしとかや。池内よりは硫黄を吹き出す。この池よ
り半町許北の方に、石礫を高さ三尺許、横幅五尺許、積み立てありて神体と稱ず。土人祈願の為に、
鉾等を寄進して、建て置く。春秋の彼岸には、土人参詣せり。女人は禁制といへども、十三歳以下の
女子は其の禁を許す。絶頂には時々燈明燃え点ずる事ありて、十二月晦日の夜には、必ず見ゆといへ
り。其の外、岳神に祈願等をなせる時は、燈明現はるとて、土人甚だ崇敬す。神廟は山下に勧請し
て、蔵王権現と号す。
○「三国名勝図会」が、硫黄島の磐座崇拝を『土人が蔵王権現と号している』と記録していることは非常に興味深い。ウィキペディアフリー百科事典が載せる蔵王権現には、次のようにある。
蔵王権現
蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。正式名称は金剛
蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起
源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金
剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意。権現とは「権(かり)の姿
で現れた神仏」の意。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。
【縁起】
蔵王権現は、役小角が、吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある。釈迦如来、千手観
音、弥勒菩薩の三尊の合体したものとされ、今でも吉野山の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした
三体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。
神仏習合の教説では安閑天皇(広国押建金日命)と同一の神格とされたため、明治時代の神仏分離
の際には、本山である金峯山寺以外の蔵王権現を祀っていた神社では祭神を安閑天皇としたところも
多い。
また神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合
し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようにな
った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%8F%BE
○この記事に拠れば、
・蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。
とあるように、大己貴命や少彦名命は明らかに出雲神であるから、出雲神は神仏習合の神であり、佛であったことが判る。
○また、上記には、
・蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。
・蔵王権現は、役小角が、吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある。
とあって、修験道、吉野山の御本尊を蔵王権現としている。修験道は、役小角の吉野山が起源とされるけれども、こうやって蔵王権現のルーツを探ると、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島へ達する。
○吉野山三山である、
・山上ケ岳(1719叩
・稲村ケ岳(1725叩
・大天井ケ岳(1438叩
を考えた場合、間違いなく硫黄島が修験道の起源だとするしかない。詳しくは以下を参照されたい。
・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『吉野山三山』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40610988.html
○こういうふうに、出雲神を追い求め続けると、出雲神は神仏習合の神であり、佛であることが判る。そしてそれは蔵王権現や辯才天信仰に辿り着く。そして、そういうところに日本の仏教伝来があることに気付かされる。
○こういうことは、実際、吉野山へ出掛け、吉野山がどういうところであるかを理解しない限り、解決しない。本ブログでは、幾度となく吉野山を訪問し、奥駈道まで歩いて来ている。
・書庫「吉野山の正体」:40個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/389714.html?m=l&p=1
・書庫「熊野から天川村・吉野・国中への旅」:17個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1177040.html?m=l&p=1
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:33個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201609.html?m=l&p=1
○村井康彦著「出雲と大和」(岩波新書)や、梅原猛著「葬られた王朝~古代出雲の謎を解く~」を読むと、意外に梅原猛や村井康彦が出雲神や出雲国を知らないことに驚く。それは梅原猛や村井康彦が日向神話を理解していないからに他ならない。日本創世が日向神話から始まっているとは、そういうことなのである。
○梅原の『葬られた王朝』は、「古代出雲の謎を解く」と副題があるけれども、その割には出雲神に対する言及はまるでなされていない。それに対し、村井康彦の『出雲と大和』は丁寧に出雲神を探索していて、最終的に出雲神が磐座崇拝であることを看破している点は、大いに評価されるべきである。
○ただ、村井は出雲神が出雲国の神であると信じて疑わない。もっとも、出雲神の出身地に言及した論がこれまで存在したわけでも無いから、無理も無い話である。ただ、出雲神を追い続けると、出雲神は九州から東北地方まで日本全国に存在し、必ずしも出雲国だけの神では無いことに留意する必要がある。
○特に、大和国一宮が大神神社であり、その御祭神が大物主大神であり、出雲神であることなどを考えると、出雲神の出身地は出雲国では無いとするしかない。それで出雲神の故郷を追い求め続けた結果、辿り着いたのが鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であった。
○鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島では、「八雲立つ出雲の風景」が現在でも、日常的にみられる。それは何とも神々しい風景である。枕詞「八雲立つ出雲」が誕生する契機が此処には間違いなく存在する。
○出雲国の何処に「八雲立つ出雲の風景」が存在するであろうか。そういうふうに考えた場合、出雲国の何処にも「八雲立つ出雲の風景」は存在しないと言うしかない。やはり、「八雲立つ出雲の風景」は、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島のそれだと言うしかないのである。
○また、村井が「出雲と大和」で述べているように、出雲神が磐座崇拝であることは、硫黄島では、すでに江戸時代に「三国名勝図会」が次のように記録している。
【硫黄峯】(在番衙より、寅方、半里許)
此の峯硫黄を産するを以て、名を得たり。此の峯當島の東西にありて、海上より聳へ立ち、形状奇
高なり。土俗の説に、登り三里、下り一里といへども、大抵半里許もあるべし。山面都て焼け石に
て、草木生ぜず。山の中腹より上は、処々硫黄燃え上がり、山頂最も多く燃え出づ。硫黄の所出は、
時々変はり移りて、一方に多く出れば、一方は少なくなるといへり。此の島の絶頂に圓池あり。径り
十四五間深さ十四間、昔日は水ありしに今は常になしとかや。池内よりは硫黄を吹き出す。この池よ
り半町許北の方に、石礫を高さ三尺許、横幅五尺許、積み立てありて神体と稱ず。土人祈願の為に、
鉾等を寄進して、建て置く。春秋の彼岸には、土人参詣せり。女人は禁制といへども、十三歳以下の
女子は其の禁を許す。絶頂には時々燈明燃え点ずる事ありて、十二月晦日の夜には、必ず見ゆといへ
り。其の外、岳神に祈願等をなせる時は、燈明現はるとて、土人甚だ崇敬す。神廟は山下に勧請し
て、蔵王権現と号す。
○「三国名勝図会」が、硫黄島の磐座崇拝を『土人が蔵王権現と号している』と記録していることは非常に興味深い。ウィキペディアフリー百科事典が載せる蔵王権現には、次のようにある。
蔵王権現
蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。正式名称は金剛
蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起
源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金
剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意。権現とは「権(かり)の姿
で現れた神仏」の意。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。
【縁起】
蔵王権現は、役小角が、吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある。釈迦如来、千手観
音、弥勒菩薩の三尊の合体したものとされ、今でも吉野山の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした
三体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。
神仏習合の教説では安閑天皇(広国押建金日命)と同一の神格とされたため、明治時代の神仏分離
の際には、本山である金峯山寺以外の蔵王権現を祀っていた神社では祭神を安閑天皇としたところも
多い。
また神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合
し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようにな
った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%8F%BE
○この記事に拠れば、
・蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。
とあるように、大己貴命や少彦名命は明らかに出雲神であるから、出雲神は神仏習合の神であり、佛であったことが判る。
○また、上記には、
・蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊である。
・蔵王権現は、役小角が、吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある。
とあって、修験道、吉野山の御本尊を蔵王権現としている。修験道は、役小角の吉野山が起源とされるけれども、こうやって蔵王権現のルーツを探ると、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島へ達する。
○吉野山三山である、
・山上ケ岳(1719叩
・稲村ケ岳(1725叩
・大天井ケ岳(1438叩
を考えた場合、間違いなく硫黄島が修験道の起源だとするしかない。詳しくは以下を参照されたい。
・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『吉野山三山』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40610988.html
○こういうふうに、出雲神を追い求め続けると、出雲神は神仏習合の神であり、佛であることが判る。そしてそれは蔵王権現や辯才天信仰に辿り着く。そして、そういうところに日本の仏教伝来があることに気付かされる。
○こういうことは、実際、吉野山へ出掛け、吉野山がどういうところであるかを理解しない限り、解決しない。本ブログでは、幾度となく吉野山を訪問し、奥駈道まで歩いて来ている。
・書庫「吉野山の正体」:40個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/389714.html?m=l&p=1
・書庫「熊野から天川村・吉野・国中への旅」:17個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1177040.html?m=l&p=1
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:33個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201609.html?m=l&p=1
○村井康彦著「出雲と大和」(岩波新書)や、梅原猛著「葬られた王朝~古代出雲の謎を解く~」を読むと、意外に梅原猛や村井康彦が出雲神や出雲国を知らないことに驚く。それは梅原猛や村井康彦が日向神話を理解していないからに他ならない。日本創世が日向神話から始まっているとは、そういうことなのである。