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石塚古墳

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○神崎荘とは、嘗て肥前国神埼郡に存在した荘園のこと。ウィキペディアフリー百科事典には、次のように載せ、その記述は極めて簡素なものである。

      神崎荘
   神埼荘(かんざきのしょう)は、平安時代~室町時代にかけて肥前国にあった荘園。神崎荘とも。
  皇室領。
  【所在】
   肥前国神埼郡。現在の佐賀県神埼市。
  【規模】
   正応5年(1291年)に3000町。
  【起源】
   承和3年(836年)に勅旨田になった690町が起源で、長和4年(1015年)以前に立荘、皇室領として歴代
  天皇・上皇に相伝された。
  【領主】
   皇室領(後白河法皇→後鳥羽上皇ら)→三浦氏(三浦泰村)→皇室領(後嵯峨上皇ら)
  【終焉】
   文永・弘安の役で恩賞地配分の対象とされたため細分化され、南北朝時代には名前だけを残して荘
  園としての実態は失われた。

○神崎荘は、前々から気になって居たところである。昨日11月9日に、佐賀空港まで行くことになったので、足を伸ばして神崎を訪問することにした。朝5時過ぎに家を出発。宮崎に立ち寄り、それから一路、佐賀空港を目指した。

○佐賀空港到着は9時20分であった。それから、13時10分発の春秋航空上海行き、9C8578便に乗る家人を見送り、12時過ぎに佐賀空港を後にした。

○最初に訪れるのは、姉川農村公園である。インターネットで検索すると、神崎市のHPに、

        まちの話題
     国史跡「姉川城跡」の説明板を設置しました
                       (掲載日:2010/10/27)
   本年2月22日に史跡指定された「姉川城跡」の説明板を設置しました。
   史跡指定以来、多くの見学者が姉川城跡を訪れています。今後整備を予定していますが、それまで
  の間市内外からの来訪者への利便を図り、姉川城跡に対する理解を深めていただくために、説明板を
  姉川農村公園内(公園東端の道路沿い)に設置しました。
とあった。したがって、姉川城跡が国の史跡指定となったのは2010年2月22日であることが判る。

○私が関心があるのは、別に、国史跡指定「姉川城跡」ではない。地図を見ると判るのだが、国史跡指定「姉川城跡」はクリークとなっているのである。今回、神崎市で、
  ・姉川農村公園
  ・横武クリーク公園
  ・直鳥クリーク公園
の三箇所を見る計画を立てた。

○佐賀空港から田圃の中を真っ直ぐ北に向かって走る県道30号線を北上し、「咾分(おとなぶん)」と言う珍地名の三叉路を右折して、国道444号線へ入る。ぐるりと南に巻くように回って、再び北上すると、県道48号線にぶつかる。

○直進して、県道48号線を北上したら、すぐに三重交差点で、48号線は右折する。右折して真っ直ぐ行ったら、小杭南の交差点で、48号線は今度は左折する。それを間違えて真っ直ぐ行ったら、道路脇に「石崎古墳」の案内が見えた。こんなところに古墳とは、何とも珍しい。

○古墳前の案内板には、次のようにあった。

      石塚古墳
   石塚古墳は、標高3辰料換馘にも例の少ない低平地に作られた古墳です。
   発掘調査は昭和63年(1988)に圃場整備に伴って実施されましたが、
  盛土部分はほとんど無くなっていたため、古墳の大きさや形については残念ながら
  よくわかりませんでした。
   石室も最下段の石積みしか残っておらず、南側と西側も無くなっていましたが、
  死者を埋葬した玄室は全長2叩幅1、3辰如古墳の外部からの通路となる幅約1辰
  羨道がとりついています。また、玄室の床面には、くだいた石を敷き、その後に人の頭ほどの
  大きさの石を並べて、遺体を安置したと考えられる高まりを作っています。
   この石室は、その構造や形態から6世紀中ごろに作られ、6世紀末から7世紀初めにかけて
  大規模な改修が行われたと考えられます。
   現在、石室は遺跡の保存のために埋め戻して土を盛り、その上に石室、羨道のあった場所を
  表示しています。
   石室内からは、挂甲(小さな鉄板を革紐などでつなぎ合わせた鎧)、金銅製の杏葉や辻金具
  といった馬具、福岡県の八女地域で作られた須恵器、日本最古級の蓮華文が彫られた金銅製金具、
  水晶製切子玉、メノウ製管玉、ガラス製小玉といった豪華な副葬品が発見され、これらは佐賀県
  重要文化財に指定されています。
   これら豪華な副葬品を持っていることや、筑後川を往来する船を見張るかのような位置を選んで
  古墳を造っていることから、筑後川河口一帯を掌握していた豪族の墓ではないかと考えられます。
                            平成23年3月   佐賀市教育委員会

○石塚古墳の存在するところは、旧諸富町為重で、筑後川から200辰曚匹靴離れていない。全くの偶然ではあったが、意外なものに出会えて嬉しかった。

○諸富は、北から城原川が、西からは佐賀市から佐賀江川が流れ来て、ここで合流し、筑後川へ注いでいる。ここは、ある意味、一帯の船着き場として重要なところであったと想像される。

○上記案内板は、
  ・筑後川河口一帯を掌握していた豪族の墓ではないか
と推測するけれども、私には城原川流域を治めた者の墓ではないかと思えてならない。つまり、神崎の王だったのではないか。

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