○横武クリーク公園を後にして、姉川農村公園を目指す。横武クリーク公園から姉川農村公園は、遠くに見えていた。直線距離で1劼曚匹靴離れていない。
○周囲は、一面田圃の中であるから、極めて見通しが良い。彼方に森が見えているので、それが姉川農村公園だろうと見当を付けて車を走らせた。きれいに整備された田圃であるから、一直線に農道を走った。
○姉川農村公園手前には、大きなクリークが走っている。その向こう岸が森となっていて、姉川農村公園らしい。クリークでは釣り人がのんびり釣りを楽しんでいた。
○大きなクリークを過ぎて、森の中へ入ると、一帯は民家があちこちに散在している。その脇に小さなクリークが縦横無尽に存在するようであった。道の横に、金網で囲まれた一角が存在し、そこがどうやら姉川農村公園みたいであった。案内板らしきものが見えるが、中を向いているので、外からは何が書いてあるのか判らない。車を停めて、公園内に入ると、予想通り、姉川農村公園であった。
○姉川農村公園内の案内板には、次のようにあった。
国史跡:姉川城跡
(平成22年2月指定)
神崎市南部地域は、堀(クリーク)を縦横に廻らした浮島状の島で形成される環濠集落と
呼ばれる空間が特に発達している。
姉川城跡は、神崎市西部、中地江川左岸の標高約3辰猟稱臣呂飽銘屬垢詼戞淵リーク)を
周囲に廻らせた城館である。「館」という地名が残る最大規模の島を中心に、「奥館」、「妙法
寺」、「小路屋敷」という地名の島群と西地区に位置する「北ん屋敷」という地名の島群、さら
に中地江川沿いに形成される小規模な方形区画の島群の大きく3ブロックで構成される。城
跡の中核部である「館」地名の残る島は台形状の平面形態で、昭和初期までは土塁が廻らさ
れていた。島の南部の東西には「泉水」と呼ばれる入り江を配し、南側には門を設け、建物
を配置していることが発掘調査により判明した。
これまでの調査の結果、十四世紀代には、「館」、「奥館」と呼ばれる島の中心部一帯に小規
模な方形区画が形成され、十五世紀後半から十六世紀前半には「北ん屋敷」などの地名が残る
西方地区の島へと拡大していることがわかった。
十六世紀から十七世紀初頭にはほぼ全域の島に生活の跡が確認され、現在のこの地形はこの
時代に形成されたと考えられる。
姉川城跡に関する文献は、延宝五年(1360年)の高木貞房軍忠状(「深堀家文書」)が初見
で、「姉河・牟田城攻」の時に高木貞房が参加したことが見え、同年の龍造寺家平軍忠状、龍
造寺家経軍忠状(「龍造寺家文書」)には、龍造寺家平・家経が「阿禰河所々御陣」で宿直警
護したことが記されている。姉川城跡はこの頃に菊池武安が築城したと伝えられており、姉
川氏はその後裔と称されている。
姉川城跡は、以上のように、十四世紀前半に成立し、十五世紀後半以降に「館」を中心とした
城郭となり、十七世紀初頭に城としての終焉を迎えたものと考えられる。
神崎市教育委員会
○案内板には、航空写真と詳細地図とがあって、極めて丁寧な案内板である。ただ、案内板は公園内を向いているので、道路からは、案内板らしきものがあると判るだけで、まるで案内板の役目を果たしていない。どうして、公園内を向いているかが、よく判らない。
○案内図に従って、小路を東へ行くと、天満宮へ出る。その先が上記案内にある「館」島になる。現在は完全に農地となっていた。
○上記の案内板とは別に、天満宮前にも案内板が設置されていて、それには次のようにあった。
佐賀平野の歴史とクリークゾーン
~姉川城跡~
姉川城跡は、周囲を堀により囲まれた大小の島より構成される中世の城館跡です。
「館」と呼ばれる最大規模の島を中心に、周囲に「小路屋敷」「妙法寺」「観世音寺」
「奥館」などと呼ばれる大小の島によって構成されています。西地区には、城跡の登城
ルートを想定させる「下馬口」「構口」地名が残り、中地江川沿いには「北ん屋敷」
「中古賀」「専称寺」など町並みの存在を推定させる地名や区割りが見られます。歴史
的には、正平十五年(1360)に菊池武安により築城されたと言われています。
これまでの発掘調査の結果、「館」地名の島には大規模な建物跡や門跡の存在が確認
され、13世紀前半代から17世紀まで存続した遺跡であることが分かりました。
姉川城跡は、中世の農村集落の発生と城館跡へと発展していく過程を知ることができる
大変重要な遺跡であり、佐賀県史跡に指定されています。
屋根のない博物館:ESCORT ME HEARTY TOWN 神崎
○なかなか洒落た案内板である。何より『屋根のない博物館:ESCORT ME HEARTY TOWN 神崎』が素晴らしい。文中、『大変重要な遺跡』とあるくらいだから、さぞかし、大事に、かつ丁寧に、保存管理されているだろうと、誰もが思うに違いない。
○実情は、涙が出るくらい、荒れ果てていた。100パーセント保存管理などされていないと、自信を持って言える。ゴミは散乱し、クリークとは名ばかりで、悪臭が漂っていた。水の流れも止まっているのだろう。赤潮が発生していて、中に亀が首をもたげて、苦しそうに息をしている。
○今回、
・横武クリーク公園
・姉川農村公園
・直鳥クリーク公園
の三箇所を廻ったが、ここが一番ひどかった。「国史跡:姉川城跡」と言うのは、名ばかりである。案内板を建てればそれでお仕舞いなのであろう。何ともお粗末な文化行政であると驚き、ただ呆れるしかない。是非とも、善処をお願いしたい。本当に、大変貴重で、『大変重要な遺跡』なのだから。