○「宋書」:卷九十三・列傳第五十三:『隱逸』が載せる陶淵明傳は、陶淵明の「五柳先生傳」「歸去來兮辭」「與子儼等疏」「命子詩」を引用して、著作している。その引用は、全文1670字中の、およそ1205字にもなっている。
○つまり、「宋書」の編者、沈約が著したのは、実質465字ほどしかない。「宋書」陶淵明傳は、ほとんど、陶淵明自身の著作から為っていることが判る。
○中でも、「五柳先生傳」は、陶淵明の完全創作であるからして、まるで陶淵明傳には似付かわしく無いものである。それにも拘わらず、沈約はそれを採用している。沈約には、陶淵明の「五柳先生傳」が必要不可欠なものとして認識されていたのだろう。
○本ブログでは、これまで、「宋書:陶淵明傳」「晋書:陶淵明傳」「五柳先生傳」「歸去來兮辭」「歸去來兮辭序」「桃花源記」「與子儼等疏」と、検証して来た。今回は、「命子詩」を考えてみたい。ただ、「命子詩」は、長いので、前半後半の二回に亘って述べたい。
命子詩:全文
悠悠我祖 爰自陶唐 邈為虞賓 歷世重光 御龍勤夏 豕韋翼商 穆穆司徒 厥族以昌
紛紛戰國 漠漠衰周 鳳隱于林 幽人在丘 逸糾遶雲 奔鯨駭流 天集有漢 眷余愍侯
於赫愍侯 運當攀龍 撫劍風邁 顯茲武功 書誓山河 啟土開封 亹亹丞相 允迪前蹤
渾渾長源 鬱鬱洪柯 群川載導 眾條載羅 時有語默 運因隆窊 在我中晉 業融長沙
桓桓長沙 伊勳伊 天子疇我 專征南國 功遂辭歸 臨寵不忒 孰謂斯心 而近可得
肅矣我祖 慎終如始 直方二臺 惠和千里 於穆仁考 淡焉虛止 寄跡風雲 冥茲慍喜
嗟余寡陋 瞻望弗及 顧慚華鬢 負影隻立 三千之罪 無後為急 我誠念哉 呱聞爾泣
卜云嘉日 占亦良時 名汝曰儼 字汝求思 溫恭朝夕 念茲在茲 尚想孔伋 庶其企而
夜生子 遽而求火 凡百有心 奚特於我 既見其生 實欲其可 人亦有言 斯情無假
日居月諸 漸免於孩 福不虛至 禍亦易來 夙興夜寐 願爾斯才 爾之不才 亦已焉哉
命子 陶潜
【原文】
悠悠我祖 爰自陶唐 邈為虞賓 暦世重光
禦龍勤夏 豕韋翼商 穆穆司徒 厥族以昌
【書き下し文】
悠悠たる我が祖、 爰に陶唐よりはじまる。
邈として虞の賓と為り、 暦世、光を重ぬ。
禦龍、夏に勤め、 豕韋、商を翼く。
穆穆たる司徒、 厥の族、以て昌んなり。
【我が儘勝手な私訳】
わが祖先の遥かなること、 それは堯帝陶唐氏から始まっている。
後は漠然とながら、舜帝有虞氏の賓客となり、 代々栄光を重ねて来た。
夏王朝では御龍氏として仕え、 商王朝では豕韋氏として一翼を担った。
周王朝では司徒陶叔を出し、 我が一族はますます栄えた。
【原文】
紛紛戰國 漠漠衰周 鳳隱于林 幽人在丘
逸虯撓雲 奔鯨駭流 天集有漢 眷予愍侯
【書き下し文】
紛紛たる戰國、 漠漠たる衰周。
鳳は林に隱れ、 幽人は丘に在り。
逸蛟の雲を撓り、 奔鯨の流を駭かす。
天は有漢に集まり、 予が罠侯を眷みる。
【我が儘勝手な私訳】
戦国時代、世は乱れ、 周王朝の衰えは並大抵では無い。
そう言う時代、鳳凰は林に隠れ、 隠士は山中に籠もるしかない。
巨龍が雲の上を暴れ回り、 巨鯨が波涛を引っ繰り返す時代であった。
最後に時代は漢代となり、 我が祖先、愍侯陶舎が注目を集めた。
【原文】
于赫罠侯 運當攀龍 撫劍夙邁 顯茲武功
參誓山河 啓土開封 微微丞相 允迪前蹤
【書き下し文】
於赫(ああ)罠侯、 運は攀龍に當たる。
劍を撫して夙に邁き、 茲の武功を顯す。
書して山河に誓ひ、 土を開封に啓く。
亹亹たる丞相、 允に前蹤を迪めり。
【我が儘勝手な私訳】
ああ、我が先祖陶舎は、 漢の高祖劉邦に仕える幸運に与かり、
剣を帯びて英勇威武、 めざましい武功を顕したのだった。
天子は封爵盛典して、 愍侯陶舎は開封の地に封ぜられた。
その後、勤勉な宰相陶青も、 立派に父祖の功業を継いだのだった。
【原文】
渾渾長源 蔚蔚洪柯 群川載導 衆條載羅
時有語默 運因隆窊 在我中晉 業融長沙
【書き下し文】
渾渾たる長源、 蔚蔚たる洪柯。
群川載ち導き、 衆條載ち羅ぬ。
時に語默あり。 運は隆窊による。
我が中晉に在りて、 業は長沙に融く。
【我が儘勝手な私訳】
渾々と流れ続ける大河、 鬱蒼と生い茂る大樹。
多くの川がそこに流れ注ぎ、 多くの枝がそこに連なり集まる。
時に応じて出仕し、或いは隠逸し、 命運は世の栄枯盛衰に従うまでである。
そして東晋の時代となって、 曽祖父陶侃が長沙郡公に任ぜられた。
【原文】
桓桓長沙 伊勳伊 天子疇我 專征南國
功遂辭歸 臨寵不忒 孰謂斯心 而可近得
【書き下し文】
桓桓たる長沙、 伊れ勳あり、伊れあり。
天子、我に疇ふるに、 專ら南國を征せしむ。
功遂げて辭し歸り、 寵に臨みて忒らず。
孰か謂ふ、斯の心、 近ごろ得べしと。
【我が儘勝手な私訳】
威風堂々たる長沙公陶侃は、 勲功があり、徳行があった。
天子は陶侃に相応しく、 専ら南国の征討に任ぜられた。
陶侃は功成し遂げて帰国しても、 天子の恩寵に驕ることはなかった。
世間では、陶侃の清心は、 近ごろなかなか得難いと評判になった。
○前回案内した「與子儼等疏」が、陶淵明50代の作品であったのに対し、「命子詩」は、陶淵明29歳の時の作品である。「命子」は『子になづく』と読み、長男の儼の生誕に際して詠まれたものである。
○ただ、陶淵明がここで展開するのは、決して単純な命名の話などではない。四言八句で一節、計十節の320字もの大作となっている。つまり、詩題と詩の内容とは、全く違うものである。
○おそらく、最初、作者が目論んでいたのは、詩題にあるように、「命子」だったに違いない。しかし、書いているうちに、興奮のあまり、とんでもない内容になってしまった。それでも、詩題は変更しなかったのだろう。この文の主題は、決して命名の話などでは無い。
○想像するに、「命子詩」を書いているうちに、屈原が脳裏を過ぎったに違いない。これは「詩」ではない。これは誰が読んでも立派な「辞」である。陶淵明は興奮したら、もう誰にも止められない。そんな男だったのではないか。