○改めて、日向国とは何か、と問われたら何と答えたら良いだろうか。なかなか日向国の定義も難しい。第一、私たちは「日向国」を『ひゅうがのくに』と呼ぶ。しかし、本当は『ひむかのくに』と呼ぶのではないだろうか。
○確認のため、ウィキペディアフリー百科事典の日向国を見ておきたい。
日向国
日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
【「日向」の由来】
『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇と日本武尊の征西説話において、「是の国は
直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている。
「日向」の読みについては、『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこ
ま = 馬ならば日向の駒)」とあり、古くは「ひむか」と呼ばれたと考えられている。ただし、この「譬
武伽」を日向国とするには検討が必要と指摘される。
【沿革】
日向国は7世紀中期以降、律令制の成立に伴って成立した。成立当初は現在の宮崎県と鹿児島県の九
州本土部分を含む広域に渡っていた。
大宝2年(702年)頃に鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立した。和銅6年(713
年)4月3日に肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が、移管し大隅国として
分立した。以後、明治初期まで日向国の領域(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂郡、諸県郡の5郡)に変
化はなかった。ただし、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等、領域の変化は
あった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD
○確認のため、ウィキペディアフリー百科事典の日向国を見ておきたい。
日向国
日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
【「日向」の由来】
『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇と日本武尊の征西説話において、「是の国は
直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている。
「日向」の読みについては、『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこ
ま = 馬ならば日向の駒)」とあり、古くは「ひむか」と呼ばれたと考えられている。ただし、この「譬
武伽」を日向国とするには検討が必要と指摘される。
【沿革】
日向国は7世紀中期以降、律令制の成立に伴って成立した。成立当初は現在の宮崎県と鹿児島県の九
州本土部分を含む広域に渡っていた。
大宝2年(702年)頃に鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立した。和銅6年(713
年)4月3日に肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が、移管し大隅国として
分立した。以後、明治初期まで日向国の領域(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂郡、諸県郡の5郡)に変
化はなかった。ただし、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等、領域の変化は
あった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD