神武天皇と大和三山
○前回、『神武天皇と邪馬台国』について書いた。そうなると、次は『神武天皇と大和三山』について触れておく必要がある。それがもちろん邪馬台国三山と大和三山に関係する話であることは言うまでも無い。前に、『邪馬台国三山と大和三山』については、すでに次のように書いている。 ・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『邪馬台国三山と大和三山』...
View Article神武東征
○前回、『神武天皇と大和三山』の話をして、神武天皇と畝傍山の運命的な関係について言及した。そうなると、次に考えるべきはどうしても神武東征の話しかない。ついでに、神武天皇の御船出の地が何処であるかについても触れておきたい。 ○前に、ブログ『辯才天信仰と彦火瓊々杵尊』で、真実の神代三山陵比定地がどのようなものであるかについて触れた。真実の神代三山陵比定地は次のようになる。...
View Article神武天皇の父:彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊
○前回、『神武東征』と題して、神武東征及び神武天皇の御船出の地の話をした。神武天皇を追い求めると、予想以上に神武天皇像を明確に思い描くことができる。今回はそういう話を続けてしてみたい。それで『神武天皇の父:彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊』と題したわけである。...
View Article神武天皇と神代三山陵
○前回、『神武天皇の父:彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊』と題して、神武天皇の父である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の話をした。その際、指摘したように、「古事記」や「日本書紀」の彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊に関する史料の少なさについて触れた。とにかく、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の記述はどうしようも無いくらい少ないのである。おそらく、「古事記」と「日本書紀」の記述から彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊像を思い描くことは誰にもできない。...
View Article神武天皇の故郷
○ここのところ、ブログ『神武東征』から『神武天皇の父:彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊』、『神武天皇と神代三山陵』と書き続けて、日向国の佳境に入っていると言えよう。つまり、神武天皇は日向国で生まれ、大和国へ移動して行った天皇だと、「古事記」や「日本書紀」は記している。...
View Article神武天皇と吾平津姫
○吾平津姫をご存じだろうか。神日本磐余彦天皇の妃が吾平津姫である。神日本磐余彦天皇とは、もちろん、初代天皇である神武天皇のことである。 ○吾平津姫が日向国の神武天皇を規定する存在であることは疑いない。誰もそういうふうに吾平津姫を評価しない。情報の少ない中で、極めて貴重な史料であるのに。...
View Article吾平と姶良
○『あいら』地名の表記は二つあって、それが吾平であり姶良である。だから正確には『あいら』地名では無くて、『あひら』地名だと言うことになる。地元でも、町名は鹿屋市吾平町となっているけれども、川の名は姶良川となっている。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵は吾平山上陵とあって、姶良ではない。...
View Article吾平山上陵
○吾平山上陵は神代三代である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵である。所在地は鹿児島県鹿屋市吾平町上名となる。もっとも、現在の神代三山陵比定地が正しいものであるわけではない。 ○ちなみに、現在の神代三山陵は、次のように比定されている。 初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社 二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵...
View Article肝付町の三岳参り
○正確には『内之浦の三岳参り』と言うのが正しいのではないか。現在は『肝付町の三岳参り』として復活しているので、『肝付町の三岳参り』として案内する。今年も開催されることを期待しているし、昨年に引き続き、是非とも参加したい。 ○昨年の『肝付町の三岳参り』が第3回であった。開催日は5月22日(日)だった。その時の様子を、以下のブログに書いているので、参照されたい。...
View Article肝付町の三岳参りとは何か
○『肝付町の三岳参り』は、肝付町合併10周年記念「三岳まいり」として、平成26年4月19日(日)に復活を遂げたと言う。第2回は平成27年に計画されたが、天候不順で止む無く中止となったらしい。 ○私が参加したのは、平成28年5月22日(日)の第3回大会であった。その時の様子については、以下に詳しく書いている。 ・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『第3回肝付町三岳まいり開催案内』...
View Article日向国の三岳信仰
○『日向国の三岳信仰』については、これまで何度も書いている。ただ、『肝付町の三岳参り』から『肝付町の三岳参りとは何か』と続けたら、どうしても『日向国の三岳信仰』に触れないわけにはいかない。 ○大和国に大和三山が存在し、熊野にも熊野三山が存在する。だから、三山信仰は日本各地に存在するのであろう。ただ、大和三山を追及すると、その原型は日向国のものであることが判るし、熊野三山は山でも無い。
View Article日向国とは何か
○改めて、日向国とは何か、と問われたら何と答えたら良いだろうか。なかなか日向国の定義も難しい。第一、私たちは「日向国」を『ひゅうがのくに』と呼ぶ。しかし、本当は『ひむかのくに』と呼ぶのではないだろうか。 ○確認のため、ウィキペディアフリー百科事典の日向国を見ておきたい。 日向国 日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。...
View Article彦火瓊々杵尊の天孫降臨
○すでに、ブログ『天孫降臨の世界山』を書いている。 ・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『天孫降臨の世界山』 https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40519918.html 加えて、別に、ブログ『霧島山:天孫降臨の世界山』も書いている。 ・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『霧島山:天孫降臨の世界山』...
View Article笠沙の御前
○前回、『彦火瓊々杵尊の天孫降臨』で案内したように、彦火瓊々杵尊が天孫降臨なさった天孫降臨の世界山、高千穂峰が何処であるかさえ、明確にできていなのが現在の日本の歴史である。何とも情けないと言うか、寂しい限りの話である。 ○それと同じように、気になって仕方が無いのが、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が地上で最初に発せられた御言葉、詔(みことのり)である。「古事記」に拠れば、次のようにある。...
View Article笠沙地名と笠島地名
○前回、『笠沙の御前』の話をした。何しろ、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が地上で最初に発せられた御言葉、詔(みことのり)の中に出てくる地名が『笠沙の御前』になる。念の為、再度、彦火瓊々杵尊の御言葉を案内しておきたい。 此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。 故、此処は甚吉き地。...
View Article坊津が日本三津の筆頭であること
○『笠沙の御前』から『笠沙地名と笠島地名』と見て来れば、どうしても坊津の話をしないわけには行かない。つまり、何故、坊津が日本三津の筆頭であるのかと言う話である。 ○もっとも、日本三津をご存じ無い方がいらっしゃるといけないので、そちらから話を進めたい。ウィキペディアフリー百科事典には、日本三津項目が無く、三津七湊としている。 三津七湊...
View Article坊津の彼方に
○前回、『坊津が日本三津の筆頭であること』の話をしたから、その次に来るのは、『坊津の彼方に』ではないか。坊津の先に何があるか。今回はそういう話をしたい。 ○そういう意味で、坊津が何故、日本三津の筆頭となっているか。その理由をしっかり認識する必要がある。また、その理由こそが日本創世が日向国から始まったことと共通する。なかなかそういうふうに日本の歴史を認識できている人は少ない。 ○
View Article白尾國柱「麑藩名勝考」
○ここまで、『笠沙の御前』から『笠沙地名と笠島地名』、『坊津が日本三津の筆頭であること』、『坊津の彼方に』と書き続けて来た。その先に見えるものは何か。そういう考え方ができるのも、日向国の万葉学の特権である。おそらく、誰もそういう見方、考え方ができないのではないか。...
View Article白尾國柱と狗奴国
○白尾國柱の「麑藩名勝考」が名著であることは間違いない。ただ、「麑藩名勝考」は尋常な書物では無い。その難解さは、おそらく、中国の史書に匹敵するのではないか。 ○何しろ、薩摩藩には薩南学派の伝統が脈々と連なっている。白尾國柱と言い、伊地知季安と言い、西村時彦と言い、時代はまるで違うのに、その漢文力には驚異的なものがある。伝統の力と言うのは、そんなものなのだろう。...
View Article白尾國柱と邪馬台国
○前回、『白尾國柱と狗奴国』と題して、狗奴国に存在するのが神代三山陵である話をした。折角であるから、ついでに、『白尾國柱と邪馬台国』の話もしてみたい。...
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