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大神神社と大和国

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○天皇家の故郷が狗奴国であり、邪馬台国で無いことが何を意味するか。なかなか難しい問題である。それは、大神神社と大和国との関係にも大きく関係している。今回はそういう話をしたい。

○最初に、大和の概念が気になるので、ウィキペディアフリー百科事典で見ておきたい。
      大和
   大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大
  和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。
   ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いた
  が、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に
  「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。
  【範囲の変遷】
   元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その
  後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)
  もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする
  令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部
  まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり
  日本国の別名として大和が使用されるようになった。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C

○別に、大和国項目も存在する。
      大和国
   大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。
  【国名について】
   当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる。ただし藤原
  京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載
  された様子も見える。
   その後、奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に表記は「大養徳」に改められ
  た。天平19年3月16日(747年4月29日)には元の「大倭」に改称。その後、天平宝字元年(757年)頃
  から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。
   国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記
  して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。その後、上記のように「大倭・大
  養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには
  「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された(「大和」の項も参照)。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD

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