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神代三山陵の先坣僑位

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○前回、『神代三山陵の先坣僑位』の話をする予定だったが、その前に、『先坣僑位の話』をしなくてはならなかった。それ程、先坣僑位と言う言葉が珍しいからである。結局、話が長くなってしまったので、題を『先坣僑位の話』に変更せざるを得なかった。

○真実の神代三山陵を発見したのは、2007年頃だったと思う。真実の神代三山陵が次のように案内される。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝付町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝付町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○可愛山陵である甫与志岳から高屋山陵である国見山までは、直線距離で6劼曚匹任△襦また、高屋山陵である国見山から吾平山陵までの直線距離は10劼曚匹任△襦これなら、親子孫の関係が成立し得る距離なのではないか。

○また、可愛山陵と高屋山陵が山上陵なのに対し、吾平山陵は山上陵では無くて川合いであることにも留意すべきである。実は神代三山陵の先坣僑位を発見した時、それが重要な証拠となったからである。それに吾平山陵が川合いであることは、日本の神社様式に深く関係していることにも気付かされる。

●2008年頃、専ら興味があったのは、吉野山であった。それは「日本書紀」持統天皇紀に、実に興味深い話が記載されているからであった。その前に、持統天皇がどんな天皇であるかくらいは案内すべきだろう。ウィキペディアフリー百科事典には、次のように載せる。
       持統天皇
   持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、天武天
  皇の皇后で、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10
  月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱
  は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)
  12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、
  『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのは
  らひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭
  の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟
  語の「継体持統」から持統と名付けられたという。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87

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