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慧遠:廬山略記

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○前回、慧遠の「游廬山」詩を紹介した。その中で、慧遠は廬山を、
  崇岩吐清氣    崇岩は清氣を吐き、
  幽岫棲神跡    幽岫に神跡の棲む。
だとし、結果、
  妙同趣自均    妙は同じく、趣も自から均し。
  一悟超三益    一悟すれば、三益も超ゆ。
出来るところが廬山だと案内していた。

○慧遠の「游廬山」詩で、廬山は十分に充足されていると思うのだけれども、同じ慧遠に、「廬山略記」がある。慧遠が「游廬山」詩で紹介したものを、「廬山略記」は更に詳しく具体的に案内している。今回は、その「廬山略記」を見てみたい。

  【原文】
       「廬山略記」
          慧遠
   山在江州潯陽南,南濱宮亭,北對九江。九江之南為小江,山去小江三十里餘。左挾彭蠡,右傍通川,
  引三江之流而據其會。在匡續先生者,出自殷周之際,遁世隱時,潛居其下。或云:續受道於仙人,而
  適游其岩,遂托室岩岫,即岩成館。故時人感其所止為神仙之廬而名焉。
   其山大嶺凡有七重,圓基周回,垂五百里,風雲之所攄,江山之所帶。高岩仄宇,峭壁萬尋;幽岫窮崖,
  人獸兩絕。天將雨,則有白氣先摶,而纓絡於山嶺下;及至觸石吐雲,則倏忽而集;或大風振岩,逸響
  動谷,群籟競奏,其聲駭人,此其化不可測者矣。
   眾嶺中第三嶺極高峻,人之所罕經也。太史公東游,登其峰而遐觀,南眺五湖,北望九江,東西肆目,
  若陟天庭焉。其嶺下半里許有重岩,上有懸崖,古仙之所居也。其下有岩,漢董奉復館於岩下,常為人
  治病,法多神驗,絕於俗醫。病愈者令栽杏五株,數年之間,蔚然成林。計奉在人間的近三百年,容狀
  常如三十時。俄而升仙,絕跡於杏林。其北嶺西岩之間,常懸流遙霑,激勢相趨,百餘仞中,雲氣映天,
  望之若山有雲霧焉。其南嶺臨宮亭湖,下有神廟,即以宮亭為號,其神安侯也。七嶺同會於東,共成峰崿。
  其岩窮絕,莫有升之者。昔野夫見人著沙彌服,凌空直上,既至,則踞其峰良久,乃與雲氣俱滅。此似
  得道者,當時能文之士,鹹為之異。
   又所止多奇,觸象有異。北背重阜,前帶雙流。所背之山,左有龍形而右塔基焉。下有甘泉湧出,冷
  暖與寒暑相變,盈減經水旱而不異,尋其源,出自龍首也。南對高岑,上有奇木,獨絕於林表數十丈,
  其下似一層浮圖,白鷗之所翔,玄雲之所入也。東南有香爐山,孤峰獨秀起。游氣籠其上,則氤氳若香煙;
  白雲映其外,則炳然與眾峰殊別。將雨,其下水氣湧出,如車馬蓋,此龍井之所吐;其左則翠林,青雀
  白猿之所巑,玄鳥之所蟄;西有石門,其前似雙闕,壁立千餘仞而瀑布流焉。其中鳥獸草木之美、靈藥
  萬物之奇,略舉其異而已耳。

  【書き下し文】
      「廬山略記」
          慧遠
   (廬)山は江州潯陽の南に在り。南は宮亭に濱し、北は九江に對す。九江の南、小江と為り、山よ
  り小江を去ること三十里餘。左に彭蠡を挾み、右傍は川に通ず。三江の流れを引きて其の會に據る。
  匡續先生在る者、殷周の際より出で、遁世し隱るる時、其下に潛居す。或いは云ふ、「續道を仙人に
  受かり、其の岩に適游す。遂に室を岩岫に托して、即ち岩を館と成す。故に時人、其の止まる所に感
  じて、神仙の廬すると為し、名とす。」と。
   其の山は大嶺にして凡そ七重有り。周回は圓基、五百里に垂る。風雲の攄る所、江山の帶ぶる所なり。
  高岩は仄宇にして、峭壁は萬尋たり。幽岫は崖を窮め、人獸兩に絕ゆ。天將に雨ふらんとすれば、則
  ち白氣の先に摶ふ有り。而して山嶺の下に纓絡す。石に觸るるに至るに及んで雲を吐き、則ち倏忽と
  して集まる。或いは大風の岩を振ひ、逸響は谷を動かし、群籟の奏を競へば、其の聲は人を駭かす。
  此れ其の化は測るべからざる者なり。
   衆嶺中、第三嶺の極めて高峻にして、人の罕に經する所なり。太史公の東游し、其の峰に登りて遐
  觀し、南に五湖を眺め、北に九江を望み、東西に肆目し、天庭に陟るが若し。其の嶺下、半里許りに
  重岩有り。上に懸崖有り。古へ仙の居せし所なり。其の下に岩有り。漢の董奉も復た岩下に館し、常
  に人の病を治するを為す。法に神驗多く、俗醫より絕なり。病愈ゆる者に杏五株を栽ゑせしむ。數年
  の間に、蔚然として林を成す。奉の人間に在るの近三百年の計、容狀は常に三十時の如し。俄かにし
  て升仙し、跡を杏林に絕つ。其の北嶺西岩の間に、常に懸流の遙霑し、激勢の相い趨る、百餘仞の中、
  雲氣は天に映じ、之を望むに山の若きに雲霧有り。其の南嶺は宮亭湖に臨み、下に神廟有り。即ち以
  て宮亭をして號と為す。其の神は安侯なり。七嶺は東に同會し、共に峰崿を成す。其の岩の窮絕たるや、
  之を升る者の有る莫し。昔、野夫、人の沙彌服を著け、空直上に凌るを見る。既に至り、則ち其の峰
  に良、久しく踞く。乃ち雲氣と俱に滅す。此れ道を得たる者に似る。當時の能文の士、鹹、之を異と
  為す。
   又、奇を多く止むる所、象に觸るれば異有り。北は重阜を背ひ、前は雙流を帶ぶ。背とする所の山、
  左に龍形有りて右に塔基あり。下に甘泉の湧出する有り。冷暖と寒暑の相變じ、經水の盈減は旱にし
  て異ならず。其の源を尋ぬるに、出自は龍首なり。南は高岑に對し、上に奇木有り。獨り林表を數十
  丈に絕し、其の下一層浮圖に似、白鷗の翔る所、玄雲の入る所なり。東南に香爐山有り、孤峰にして
  獨り秀起す。游氣の其の上に籠れば、則ち氤氳の香煙の若し。白雲の其の外に映ずれば、則ち炳然と
  して衆峰と殊らに別なり。將に雨ふらんとすれば、其の下水氣湧出し、車馬蓋の如し。此れ龍井の吐
  く所なり。其の左は則ち翠林にて、青雀白猿の巑する所、玄鳥の蟄する所なり。西に石門有り。其の
  前は雙闕に似、壁立の千餘仞にして瀑布流る。其の中、鳥獸草木の美、靈藥萬物の奇、略、其の異を
  舉げて已むのみ。

○長い文であるので、訳は略するしかない。読んでいただければ、判るのだが、慧遠が実に丁寧に廬山を案内しているのに驚く。それは実際の廬山の地理案内から、匡續先生を始めに、太史公司馬遷、杏林の董奉を廬山の先人として紹介している。その誰もが、日本人の私達にさえ知られた人々となっている。

○つまり、廬山は中国宗教や哲学の発祥の地であり、中国歴史文学の嚆矢であり、中国医学の始原だと慧遠は言いたいに違いない。

○慧遠が最後に紹介するのは、もちろん、西林寺や東林寺の存在する香爐山界隈であることは言うまでもない。そこは慧遠が生涯引き籠もって一度も出ることのなかった地である。彼は中国浄土宗の始祖とされる人物である。ある意味、誰よりも廬山を代表する人物に相応しい。

○その慧遠が案内するのが、「游廬山」詩であり、「廬山略記」である。彼の話を聞くことが廬山を理解することであることは言うまでもなかろう。ただ、その話は、あまりに崇高で、凡人にはなかなか理解されない。そんな山が廬山である。

○最後に、再度、ウィキペディアフリー百科事典と中国の検索エンジン百度百科が案内する廬山の冒頭部分のみを掲載しておく。もちろん、それは、慧遠が案内する廬山と比較するためである。
【ウィキペディアフリー百科事典】
      廬山
   廬山(ろざん、中国語ではLushan)は中国江西省九江市南部にある名山。峰々が作る風景の雄大さ、
  奇絶さ、険しさ、秀麗さが古来より有名で、「匡廬奇秀甲天下」(匡廬の奇秀は天下一である)と称
  えられてきた(匡廬とは廬山の別名)。廬山国家風景名勝区に指定されているほか、廬山自然公園と
  してユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。また「廬山第四紀氷河地形国家地質公園」
  としてジオパークにも指定されており、ユネスコの世界ジオパークネットワークにより認定されている。
【百度百科】
      廬山
   庐山,世界文化景观遗产,世界地质公园,全国重点文物保护单位,国家重点风景名胜区,国家AAAA
  A级旅游景区。
   庐山山体呈椭圆形,典型的地垒式块段山,长约25公里,宽约10公里,绵延的90余座山峰,犹如九叠
  屏风,屏蔽着江西的北大门。以雄、奇、险、秀闻名于世,素有“匡庐奇秀甲天下”之美誉,与鸡公山、
  北戴河、莫干山并称四大避暑胜地。巍峨挺拔的青峰秀峦、喷雪鸣雷的银泉飞瀑、瞬息万变的云海奇观、
  俊奇巧秀的园林建筑,一展庐山的无穷魅力。庐山尤以盛夏如春的凉爽气候为中外游客所向往,是久负
  盛名的风景名胜区和避暑游览胜地。历代题诗极多,李白《望庐山瀑布》尤为著名。

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