○当古代文化研究所の研究に拠ると、真実の神代三山陵は、次のように案内される。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○今どき、神代三山陵が何であるかさえ理解していない方が多いのではないか。「古事記」や「日本書紀」が案内する日向神話で、地上神話の始まりが神代三代と言うことになる。地上に降り立ったとは言え、神代三代と称する通り、まだ神様の要素が極めて強い。その話も日向神話と称されている。
○日向神話の実態も、大きく分けて、次の三つになる。
・天孫降臨神話
・山幸海幸神話
・神武東征
○もっとも、神武東征は、ほとんど大和国での話となるから、日向神話には含まれないのかも知れない。ただ、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊には、ほとんど業績が記されていないので、その子の神武東征が代表されると言うわけである。
○しかし、現在の神代三山陵比定地は、次のようになっている。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○この判断は、まるで根拠の無い話である。そのことは、以下のブログで丁寧に検証済みであるから、そちらを参照されたい。
・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1
●神代三山陵は、その名の通り、神代の話である。したがって、幾ら真実の神代三山陵を発見したところで、それを証明することは不可能だろうと思っていた。ところが意外なことから、それが証明できて、驚いた。それが神代三山陵の先坣僑位である。
●先坣僑位とは、他国に移住した者が、その祖先を祀るために建てた廟所である。たまたま、宮崎県日南市飫肥板敷にある日向安国寺墓地で、安井滄洲先生が建てた「安井氏先坣僑位」を見た。
・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『安井氏先坣僑位』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/19422847.html
●それで、神代三山陵の先坣僑位と命名したわけである。その神代三山陵の先坣僑位は、次のように案内される。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=吉野山
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=高野山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=熊野本宮
●吉野山・高野山・熊野本宮と言えば、世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」の骨格をなす霊場である。『ウィキペディア(Wikipedia)』にも、次のように載せる。
紀伊山地の霊場と参詣道
紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)は、和歌山県・奈良県・三重
県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、
高野山町石道)を登録対象とする世界遺産(文化遺産)。2004年7月7日に登録され、2016年10月26日
に登録範囲の「軽微な変更」がなされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/紀伊山地の霊場と参詣道
●世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」と言う命名もまた、珍妙なものと言わざるを得ない。それでも、こういうふうにしか命名できなかった人々の思案は、ある意味、やむを得ないのかも知れない。
●それは、世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」そのものが、もともと一つの概念であったことを確認できていないからに他ならない。もっとも、そんなものが、日本中の文献を捜索したところで出現するわけではない。それが神代三山陵の先坣僑位である。
◎すでに「古事記」や「日本書紀」が成立した八世紀には、そういう概念を喪失してしまっていたと考えるしかない。もし、神代三山陵の先坣僑位の概念が八世紀に存在していたのであれば、「古事記」や「日本書紀」が記録しないはずがないからである。大和朝廷にとって、これ以上に大事なものは無いのだから。
◎真実の神代三山陵は、当古代文化研究所の研究に拠れば、次のように案内される。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎これが本物の神代三山陵であることを、次の神代三山陵の先坣僑位が証明してくれる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=吉野山
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=高野山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=熊野本宮
◎真実の神代三山陵を訪れ、さらに神代三山陵の先坣僑位を訪れてみると、この両者は全くの相似形であることが判る。その位置関係も、そして御陵の様子も。ここで言う御陵の様子とは、御陵とされる場所の様子のことである。
◎世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」と言う、何の意味も無いネーミングは、改められるべきであると思う。と言うか、改められなくてはならない。それは名が体を表していないからである。「紀伊山地の霊場と参詣道」と言うネーミングから何が想起されると言うのだろうか。まるでわけのわからない名である。
◎
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○今どき、神代三山陵が何であるかさえ理解していない方が多いのではないか。「古事記」や「日本書紀」が案内する日向神話で、地上神話の始まりが神代三代と言うことになる。地上に降り立ったとは言え、神代三代と称する通り、まだ神様の要素が極めて強い。その話も日向神話と称されている。
○日向神話の実態も、大きく分けて、次の三つになる。
・天孫降臨神話
・山幸海幸神話
・神武東征
○もっとも、神武東征は、ほとんど大和国での話となるから、日向神話には含まれないのかも知れない。ただ、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊には、ほとんど業績が記されていないので、その子の神武東征が代表されると言うわけである。
○しかし、現在の神代三山陵比定地は、次のようになっている。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○この判断は、まるで根拠の無い話である。そのことは、以下のブログで丁寧に検証済みであるから、そちらを参照されたい。
・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1
●神代三山陵は、その名の通り、神代の話である。したがって、幾ら真実の神代三山陵を発見したところで、それを証明することは不可能だろうと思っていた。ところが意外なことから、それが証明できて、驚いた。それが神代三山陵の先坣僑位である。
●先坣僑位とは、他国に移住した者が、その祖先を祀るために建てた廟所である。たまたま、宮崎県日南市飫肥板敷にある日向安国寺墓地で、安井滄洲先生が建てた「安井氏先坣僑位」を見た。
・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『安井氏先坣僑位』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/19422847.html
●それで、神代三山陵の先坣僑位と命名したわけである。その神代三山陵の先坣僑位は、次のように案内される。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=吉野山
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=高野山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=熊野本宮
●吉野山・高野山・熊野本宮と言えば、世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」の骨格をなす霊場である。『ウィキペディア(Wikipedia)』にも、次のように載せる。
紀伊山地の霊場と参詣道
紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)は、和歌山県・奈良県・三重
県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、
高野山町石道)を登録対象とする世界遺産(文化遺産)。2004年7月7日に登録され、2016年10月26日
に登録範囲の「軽微な変更」がなされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/紀伊山地の霊場と参詣道
●世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」と言う命名もまた、珍妙なものと言わざるを得ない。それでも、こういうふうにしか命名できなかった人々の思案は、ある意味、やむを得ないのかも知れない。
●それは、世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」そのものが、もともと一つの概念であったことを確認できていないからに他ならない。もっとも、そんなものが、日本中の文献を捜索したところで出現するわけではない。それが神代三山陵の先坣僑位である。
◎すでに「古事記」や「日本書紀」が成立した八世紀には、そういう概念を喪失してしまっていたと考えるしかない。もし、神代三山陵の先坣僑位の概念が八世紀に存在していたのであれば、「古事記」や「日本書紀」が記録しないはずがないからである。大和朝廷にとって、これ以上に大事なものは無いのだから。
◎真実の神代三山陵は、当古代文化研究所の研究に拠れば、次のように案内される。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎これが本物の神代三山陵であることを、次の神代三山陵の先坣僑位が証明してくれる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=吉野山
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=高野山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=熊野本宮
◎真実の神代三山陵を訪れ、さらに神代三山陵の先坣僑位を訪れてみると、この両者は全くの相似形であることが判る。その位置関係も、そして御陵の様子も。ここで言う御陵の様子とは、御陵とされる場所の様子のことである。
◎世界遺産(文化遺産)「紀伊山地の霊場と参詣道」と言う、何の意味も無いネーミングは、改められるべきであると思う。と言うか、改められなくてはならない。それは名が体を表していないからである。「紀伊山地の霊場と参詣道」と言うネーミングから何が想起されると言うのだろうか。まるでわけのわからない名である。
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