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神野:熊野の故郷

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○神代三代の天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵、吾平山上陵が存在するのは、鹿児島県鹿屋市吾平町上名となっている。吾平山上陵は、山上陵と言いながら、可愛山上陵や高屋山上陵と違って、河原に存在する洞窟が御陵となっている。

○神代三山陵の先坣僑位を求めた際、このことが大きなヒントとなったことは言うまでもない。その神代三山陵の先坣僑位を、確認の為、再掲しておく。
  ・可愛山陵=吉野山:奈良県吉野郡吉野町及び天川村
  ・高屋山陵=高野山:和歌山県伊都郡高野町高野山
  ・吾平山陵=熊野本宮:和歌山県田辺市本宮町本宮

○ちなみに、真実の神代三山陵を誰もご存じ無い。だから、それも、ここに再掲するしかない。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○真実の神代三山陵と、神代三山陵の先坣僑位の両方に出掛けてみれば、判ることだが、両者は全くの相似形なのである。今回の大隅半島周遊は、その神代三山陵巡りが目的であった。

○鹿児島県鹿屋市吾平町上名に存在する吾平山上陵の何処を探しても熊野地名の欠片も無い。吾平山上陵の先坣僑位が和歌山県田辺市本宮町本宮に鎮座まします熊野本宮であることは、どう考えるのかとおっしゃるかもしれない。

○しかし、熊野地名の故郷が鹿児島県鹿屋市吾平町であることは、間違いないのである。ただ、熊野地名は、ここでは熊野とはならない。もともと熊野地名は神野であった。神の坐すところを神野と呼び称した。漢字は神野だが、呼び名は『くまの』だったのである。それを呼び名のままに漢字を当てたのが熊野地名である。

○信じられないかも知れないが、それが本当である。例えば、福岡県久留米市には神代地名が存在する。神代と書いて、『くましろ』と呼ぶ。つまり、神は『くま』と読むことが判る。

○それに、熊野地名は、結構、日本中に存在する。それらの中には、熊野神を勧請して発生したと思われる地名も多い。しかし、もともと、熊野神そのものが日向國の神様であることは間違いない。和歌山県田辺市の熊野本宮も、もとは勧請されてできたものに他ならない。

○誰もそういうことを考えない。と言うか、認めたくないのかも知れない。しかし、文化を耕すと、そういうことが判って来る。現在、熊野本宮・吉野山・高野山は、「紀伊山地の霊場と参詣道」と言う、妙ちくりんな名で、世界文化遺産に登録されている。何とも、文化の無い世界遺産であることに驚く。それは、違うだろう。

○「紀伊山地の霊場と参詣道」が一つの概念であることを、文化庁がまるでご存じ無い。それが驚きである。それは神代三山陵の先坣僑位と言う概念である。日本人の祖霊信仰の典型的な例が神代三山陵の先坣僑位なのである。

○そういうことを理解するには、「古事記」や「日本書紀」を丁寧に読み、日向國を耕すしかないわけである。そういう努力がまるでなされていない。何とも貧しい文化国家だと言うしかない。

○当古代文化研究所は、日向國にあって、そういうことを研究している。真実の神代三山陵も、神代三山陵の先坣僑位も、本古代文化研究所の研究成果である。鹿児島県鹿屋市吾平町の神野を研究すれば、熊野が本来、どういうものであったかが見えてくる。

○そういう話を続けたいのだが、話が長くなりそうなので、次回に繋げたい。

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