○2014年5月から、肝付町観光協会主催で、肝付町合併10周年記念「三岳まいり」が、毎年開催されていた。2018年の昨年も期待していたが、残念ながら、開催されなかった。
○2016年2017年と、肝付町合併10周年記念「三岳まいり」に参加させていただいた。したがって、2018年も参加するつもりでいたが、案内が無かった。非常に寂しいし、残念でならない。
○それで、2018年12月25日に、吾平山上陵へ参詣し、姫門登山口から甫与志岳へ登山し、内之浦の町に出て、高屋神社へ参詣した。この日、国見山にも登る予定だったが、夕方になったので、断念して、27日に改めて肝付町を訪れ、国見山登山を済ませた。縦走はできなかったが、三岳参りは済ませることができたのではないか。
○と言うのは、内之浦三岳参りとは何かを考えた場合、内之浦三岳参りは、もともと、神代三山陵巡りだったと断じるしかない。詳しくは、次のブログに書いている。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『内之浦三岳参りとは何か』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41630250.html
○その神代三代を記録したのが、日向神話と呼ばれる。それで、日向神話の話を続けることとなった。日向神話は、大きく次の三つに集約される。
‥径更瀘弯析
海幸山幸神話
神武東征神話
○天孫降臨神話と海幸山幸神話について、これまで述べて来た。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『天孫降臨の世界山』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41632700.html
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『海幸山幸』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41642395.html
●したがって、今回ここでは、神武東征神話を考えてみたい。本来、神代三代とは、彦火瓊々杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の三者を指す。そういう意味では、
・彦火瓊々杵尊⇒天孫降臨神話
・彦火火出見尊⇒海幸山幸神話
となるから、もう一つの日向神話は、当然、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊のものとなるはずである。ところが、記紀が記録する彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の足跡は、あまりに貧弱で、まるで特記できるものが無い。
●そういう意味で、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は、神代三代の中で、取り分けて、影の薄い存在だと言うしかない。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の足跡で特記できるものと言えば、せいぜい、吾平山上陵くらいのものではないか。
●それに、神武東征神話のほとんどは、日向神話の範疇には入らない。何故ならば、日向国を出立するまでが日向神話の中の神武東征神話となる。記紀には、そういう記述もまた、ほとんど無いのが実状である。
●したがって、日向神話として扱われる神武東征神話は、お船出の地くらいのものではないか。日向国には、神武天皇の足跡がまるで少ないのが、非常に気になる。記紀に拠れば、神武天皇は15歳で立太子、45歳で神武東征へ旅立ったとあるだけで、日向国には、ほとんどその足跡は無い。これもまた、妙な話である。
○したがって、ここで日向神話として問題とするのは、神武東征神話とは言っても、それは神武天皇が何処に居て、何処から神武東征へと旅立ったかと言うくらいの話にしかならない。それくらいしか、日向国には、神武天皇の記録が無いのである。
○そこで頼りとなるのが、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の記録である。神武天皇が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の子供である以上、彼の庇護のもとに成長したことは当然だろう。ところが、頼りの彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊に関する記述が記紀には、あまりに少ない。それは古事記にしても日本書紀にしたところで、ほんの数行しかない。彦火瓊々杵尊や彦火火出見尊との差は、歴然たるものがある。
○そのわずかな彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の記録で、もっとも、貴重なのが彼の御陵、吾平山上陵である。神代三山陵の中で、その所在地がもっとも確実視されるのが、吾平山陵ではないか。
○神代三山陵研究の第一人者とも言える、白尾國柱が神代三山陵を比定する上で、基準としたのも、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の吾平山陵ではないか。そこから、高屋山陵や可愛山陵を比定して行った。
○その白尾國柱が比定した神代三山陵は、次の通りである。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○白尾國柱の神代三山陵の研究を継承して、神代三山陵を研究すると、真実の神代三山陵は次のようになる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎神武東征神話の話をすると言いながら、神代三山陵の話をしている。話が違うでは無いかと思われるかも知れない。しかし、神武東征神話の話で、神代三山陵の比定地を付き止めることがもっとも大事な要件であることに、気付いている人は少ない。
◎国学者である白尾國柱が神代三山陵の研究に没頭したのは、天皇家の故郷が何処であるかを付き止めようとしたからに他ならない。神代三山陵が比定されれば、そこが天皇家の故郷だと言うことを、白尾國柱は理解していた。それが、現在のような、
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
であることは、あり得ない話である。どう考えても、真実の神代三山陵は次のようになる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎つまり、神代三山陵の比定地が天皇家の故郷だと言うことである。神武東征神話と言いながら、神代三山陵の比定地の話をするのは、そういうことである。当然、神武天皇が居たのも、此処であり、神武東征の旅に出立したのも、此処だと言うことになる。
●神武東征神話のお船出の地は、何処か。それは肝属川河口とするしかない。このことについては、当古代文化研究所では、2008年5月に、次のブログで、詳しく触れている。
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー序章』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8053931.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー美々津』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8120416.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー宮浦神社』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8165840.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー東串良町柏原』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8247070.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征お船出の地はどこか』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8259602.html
○2016年2017年と、肝付町合併10周年記念「三岳まいり」に参加させていただいた。したがって、2018年も参加するつもりでいたが、案内が無かった。非常に寂しいし、残念でならない。
○それで、2018年12月25日に、吾平山上陵へ参詣し、姫門登山口から甫与志岳へ登山し、内之浦の町に出て、高屋神社へ参詣した。この日、国見山にも登る予定だったが、夕方になったので、断念して、27日に改めて肝付町を訪れ、国見山登山を済ませた。縦走はできなかったが、三岳参りは済ませることができたのではないか。
○と言うのは、内之浦三岳参りとは何かを考えた場合、内之浦三岳参りは、もともと、神代三山陵巡りだったと断じるしかない。詳しくは、次のブログに書いている。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『内之浦三岳参りとは何か』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41630250.html
○その神代三代を記録したのが、日向神話と呼ばれる。それで、日向神話の話を続けることとなった。日向神話は、大きく次の三つに集約される。
‥径更瀘弯析
海幸山幸神話
神武東征神話
○天孫降臨神話と海幸山幸神話について、これまで述べて来た。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『天孫降臨の世界山』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41632700.html
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『海幸山幸』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41642395.html
●したがって、今回ここでは、神武東征神話を考えてみたい。本来、神代三代とは、彦火瓊々杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の三者を指す。そういう意味では、
・彦火瓊々杵尊⇒天孫降臨神話
・彦火火出見尊⇒海幸山幸神話
となるから、もう一つの日向神話は、当然、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊のものとなるはずである。ところが、記紀が記録する彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の足跡は、あまりに貧弱で、まるで特記できるものが無い。
●そういう意味で、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は、神代三代の中で、取り分けて、影の薄い存在だと言うしかない。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の足跡で特記できるものと言えば、せいぜい、吾平山上陵くらいのものではないか。
●それに、神武東征神話のほとんどは、日向神話の範疇には入らない。何故ならば、日向国を出立するまでが日向神話の中の神武東征神話となる。記紀には、そういう記述もまた、ほとんど無いのが実状である。
●したがって、日向神話として扱われる神武東征神話は、お船出の地くらいのものではないか。日向国には、神武天皇の足跡がまるで少ないのが、非常に気になる。記紀に拠れば、神武天皇は15歳で立太子、45歳で神武東征へ旅立ったとあるだけで、日向国には、ほとんどその足跡は無い。これもまた、妙な話である。
○したがって、ここで日向神話として問題とするのは、神武東征神話とは言っても、それは神武天皇が何処に居て、何処から神武東征へと旅立ったかと言うくらいの話にしかならない。それくらいしか、日向国には、神武天皇の記録が無いのである。
○そこで頼りとなるのが、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の記録である。神武天皇が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の子供である以上、彼の庇護のもとに成長したことは当然だろう。ところが、頼りの彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊に関する記述が記紀には、あまりに少ない。それは古事記にしても日本書紀にしたところで、ほんの数行しかない。彦火瓊々杵尊や彦火火出見尊との差は、歴然たるものがある。
○そのわずかな彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の記録で、もっとも、貴重なのが彼の御陵、吾平山上陵である。神代三山陵の中で、その所在地がもっとも確実視されるのが、吾平山陵ではないか。
○神代三山陵研究の第一人者とも言える、白尾國柱が神代三山陵を比定する上で、基準としたのも、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の吾平山陵ではないか。そこから、高屋山陵や可愛山陵を比定して行った。
○その白尾國柱が比定した神代三山陵は、次の通りである。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○白尾國柱の神代三山陵の研究を継承して、神代三山陵を研究すると、真実の神代三山陵は次のようになる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎神武東征神話の話をすると言いながら、神代三山陵の話をしている。話が違うでは無いかと思われるかも知れない。しかし、神武東征神話の話で、神代三山陵の比定地を付き止めることがもっとも大事な要件であることに、気付いている人は少ない。
◎国学者である白尾國柱が神代三山陵の研究に没頭したのは、天皇家の故郷が何処であるかを付き止めようとしたからに他ならない。神代三山陵が比定されれば、そこが天皇家の故郷だと言うことを、白尾國柱は理解していた。それが、現在のような、
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
であることは、あり得ない話である。どう考えても、真実の神代三山陵は次のようになる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
◎つまり、神代三山陵の比定地が天皇家の故郷だと言うことである。神武東征神話と言いながら、神代三山陵の比定地の話をするのは、そういうことである。当然、神武天皇が居たのも、此処であり、神武東征の旅に出立したのも、此処だと言うことになる。
●神武東征神話のお船出の地は、何処か。それは肝属川河口とするしかない。このことについては、当古代文化研究所では、2008年5月に、次のブログで、詳しく触れている。
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー序章』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8053931.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー美々津』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8120416.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー宮浦神社』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8165840.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー東串良町柏原』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8247070.html
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征お船出の地はどこか』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8259602.html