○前回、ブログ『「魏志倭人伝」を読む 戮鮟颪い燭、「魏志倭人伝」の序文の話で、終わってしまった。したがって、今回は、その続きと言うことになる。
○「魏志倭人伝」全文1986字は、大きく三つに分けられる。前回、紹介したのは、その「魏志倭人伝」の冒頭、わずか35字の序文の話であった。それでも、35字の序文が案内するものは大きい。
●今回、考えるのは、「魏志倭人伝」全三段落の最初の第一段落の話である。最初に、その全文を案内したおきたい。
【第一段落】
倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、曆韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里、至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸,無良田、食海物自活、乖船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食。亦南北市糴。又渡一海、千餘里、至末盧國。有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。(556字)
●ことわっておくけれども、こういう段落分けは、決して私的なものではない。それは「魏志倭人伝」を何度も読むと判るのだが、あくまで、「三国志」の編者である陳壽が意図したものであって、それは誰が何時読んでもそうなる。
●その証拠に、陳寿は、第一段落や第二段落の最後に、「魏志倭人伝」の中でも、もっとも大事な文章をさりげなく置いて、段落構成を案内している。それが陳寿のやり方で、次の二文となる。
・自郡至女王國萬二千餘里。
・參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
もっとも、内容上、そうなっていることは当たり前の話である。
●この「魏志倭人伝」第一段落で、陳寿が目論むのは、倭国三十国の案内である。陳寿は、魏志倭人伝」冒頭で、次のように述べている。
倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。
舊百餘國。漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
●これが「魏志倭人伝」の序文であることは、前回、触れたとおりである。この「魏志倭人伝」冒頭の序文で、陳壽はさりげなく倭国が三十国であることを表記している。こういう表現方法が陳寿の常套手段であることを見逃してはならない。
●何故かと言うと、これ以降、陳壽はこれら倭国三十国を案内するのに、鋭意、奮闘努力しているのである。それが陳壽のやり方なのである。編者がそうしている以上、それにしたがって読むのが中国の史書の作法であることは、言うまでもない。
○それでは、「魏志倭人伝」の記述にしたがって、倭国三十国を見て行きたい。最初の倭国の名は狗邪韓國だとする。それは朝鮮半島に存在したとも記す。次に出て来るのが対馬国、三番目が壱岐国となっている。
○こういうふうに、だらだらと国名を並べて行くと、収拾がつかなくなるから、整理する意味で、名前を付けて行くことにしたい。狗邪韓国・対馬国・壱岐国をまとめて、「渡海三国」としておく。
○続けて出現するのが、末廬国であり、伊都国、奴国、不弥国の順となっている。これにも、まとめて名を付けると、「北九州四国」としておきたい。
○そして、その次に出現するのが、投馬国であり、邪馬台国、狗奴国となる。これには「南九州三国」と命名したい。それは、次のような理由からである。
●当時、中国の最南端は帯方郡とするのが「魏志倭人伝」の考え方である。したがって、倭国への出発点となるのも、当然、帯方郡だと言うことになる。その帯方郡から海岸沿いに七千餘里行ったところが狗邪韓国。狗邪韓国から千餘里、海を渡って対馬国。さらに対馬国から海を渡ること千餘里で壱岐国。壱岐国から更にもう一回、海を渡ると、末廬国だとある。
●何でも無い表現のように思われるが、相手は、名手、陳寿である。十分な用心が肝要であることは言うまでもない。つまり、帯方郡から末廬国までは、ちょうど壹萬餘里だと言うことになる。この判断を見逃してはならない。
●どういうことかと言うと、それには、第一段落最後の、次の一文が作用してくる。
・自郡至女王國萬二千餘里。
お判りだろうか。帯方郡から末廬国までが壹萬餘里なら、末廬国から女王国である邪馬台国までは、二千餘里だと言うことである。これは極めて重要な要件である。
●そして、次の考えるのが、第二段落最後の、次の一文になる。
・參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
直訳すると、次のようになる。
・倭国を訪問してみると判るのだが、倭国は絶海の海の中に存在し、島々が続いたり途絶えたり
しながら存在し、その中心となる島は周回すれば五千餘里である。
●ここで大事なのは、「周旋」と言う表現である。これは糸の先に重りを付けてくるくる回す状態を意味する。つまり、誰が何時行っても同じルートを辿ることができる。それが「周囲が五千餘里の島」であることは、容易に理解されよう。
●問題は、その起点だろう。しかし、日本で、このような地理的状況下であれば、それは容易に判断できる。「周囲が五千餘里の島」は、九州島以外には存在しない。そう判断すれば、起点が末廬国だと言うことが判る。
●結果、九州島を右回りに回るルートと、左回りに回るルートが考えられる。「魏志倭人伝」では、末廬国から伊都国、奴国、不弥国の順となっているから、それは右回りに回るルートであると判断される。
●つまり、九州島を右回りに回っても、左回りに回っても、邪馬台国には到達できる。末廬国から女王国である邪馬台国までの最短距離が、二千餘里と言うことだったから、九州島を右回りに回るルートなら三千餘里で、九州島を左回りに回るルートなら二千餘里となるのではないか。
●そう考えると、投馬国・邪馬台国・狗奴国が存在するのは南九州しか考えられない。これが投馬国・邪馬台国・狗奴国を、「南九州三国」と考えた理由である。
◎最後に残っているのが、
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
の倭国二十一国である。これを規定する情報を、「魏志倭人伝」は、何ら残していない。これは極めて不親切な話である。倭国三十国のうちの二十一国について、何も情報が無い。
◎しかし、これも、実は陳寿一流のやり方である。よくよく考えると、誰でも判る話である。それは、次のような話となる。
・倭国には、三十国が存在します。最初の三国を「渡海三国」と言って、狗邪韓国・対馬国・壱岐国 の三国になります。
・次に存在するのが、「北九州四国」で、末廬国・伊都国・奴国・不弥国の四国になります。
・最後に、投馬国・邪馬台国・狗奴国の「南九州三国」があります。これで、全部で十国となりま
す。では、残りの二十一国は何処に存在するでしょうか?
◎まあ、何とも恐ろしい話である。陳寿と言う男は、こういうことを三世紀に、平然と問い質しているのだから。これまで千七百年も、誰も対応できなかったのだから。こういうのを大天才と言う。と言うか、もう、これは神の領域に近い。
◎もちろん、その答えは「中九州」になる。整理すると、倭国三十国は、次のように案内される。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
◎これが当古代文化研究所が導き出した答えである。こういうふうに倭国三十国を案内した人は誰も居ない。これが陳寿の実力である。凡人は彼の前に、ただ平伏すしかない。
◎これはまた、「魏志倭人伝」の主題でもある。これ以上に、陳壽が「魏志倭人伝」で特記したいことはあり得ない。流石、陳寿。彼は恐ろしい男である。誰もそういうふうに彼を評価してくれないのが、残念でならない。
●当古代文化研究所では、陳寿に敬意を表して、彼の故郷である四川省南充市を訪問している。南充市では、陳寿を顕彰して、南充西山萬卷楼を建てている。詳しくは、以下のブログを参照されたい。
・書庫「陳寿の故郷・南充」:28個のブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/sigureteikamoyama/folder/1272564.html?m=l&p=1