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大隅国大隅郡大隅郷

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○大隅国の成立について、ウィキペディアフリー百科事典は、次のように案内する。
      大隅国
   『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。
   南九州の日向地域は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。この
  中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめ
  た旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウ
  ガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、
  神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
   現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。
  特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対
  隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末
  から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼
  人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。
   7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向
  国が成立した。
   大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、同年、日向国を割いて唱更国・多褹国として
  分立した。
   その流れの中で和銅6年(713年)4月3日、日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡、現在
  の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、大隅国の始まりとされる。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/大隅国

○随分昔の話になるが、『鹿児島はなぜ鹿児島と言う?』と言う話を書いたことがある。この話は、2008年1月29日から2月5日まで、10回に渡って書いている。
  ・書庫「鹿児島はなぜ鹿児島と言う?」:10個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/321692.html?m=l

○その中で、平田信芳の『国分物語』にある、次のような話を紹介している。
   囎唹郡(昭和四七年四月以降は曽於郡と表記を改めた)は、現在、志布志湾沿岸一帯の郡名である
  が、奈良・平安時代は今日の国分地方をその中心とする地名であった。熊曽国・球磨囎唹・熊襲など
  と呼ばれた勢力の中心は、国分地方であったと考えてよい。(中略)
   それでは、現在の曽於郡は、昔はなんと呼ばれていたのか。それは、大隅郡と呼ばれていたと考え
  てよい。今日の志布志町一帯は、本来、大隅国大隅郡大隅郷という国名・郡名・郷名ともに共通する
  地名をもっていたと考えられるが、志布志・松山・末吉など現在の曽於郡の境域は中世以降明治の中
  葉まで日向国諸縣郡に所属していたがために、大隅国を代表するような地名も長い歴史の中で消滅し
  てしまったのである。国・郡・郷の名称が一致していたのは、日本全国を眺めてみても、他に駿河・
  出雲・安芸・土佐・丹後(丹波)があるだけの少ない例であっただけに、変動の激しかった歴史にた
  だ驚くばかりである。(以下略)

○鹿児島各地を歩いていると、この中にある、
  ・今日の志布志町一帯は、本来、大隅国大隅郡大隅郷という国名・郡名・郷名ともに共通する地名を
   もっていたと考えられる
と言うことに疑問を抱くようになって久しい。当時は、このように判断されていたのであろう。

○このことが気になって、図書館へ行って、角川日本地名大辞典で、確認してみた。現在の角川日本地名大辞典には、次のようにある。
      おおすみのくに:大隅国
   旧国名。西海道の一国に属し、ほぼ鹿児島県の東半分を占める。東は日向国、西は薩摩国に接する。
  大隅半島とその基部からから成り、西南海上に種子島・屋久島等がある。屋久島は古代・近世は大隅
  に属したが、中世は永良部島とともに薩摩国に属し河辺郡十二島中に含まれていたようである。
  〔古代〕
   はじめは日向国のうちで襲国に当たる。「先代旧事本紀」大隅国造の条に景行天皇代に隼人同祖初
  小を治平し、仁徳天皇代に日佐となり、国造を賜るとあるのが古い。豪族として大隅直や曽君・加士
  伎県主・肝衡等の名が見える。「続に本紀」和銅6年4月条に、日向肝坏・贈於・大隅・姶羅4郡を
  割いて初めて大隅国を置くとある。(以下略)
●この記述には、大いに問題がある。まず、
  ・(大隅国は)東は日向国、西は薩摩国に接する。
とあるけれども、そんな話は聞いたことがない。誰がどう考えたところで、大隅国の東は海である。
●また、
  ・(大隅国の)西南海上に種子島・屋久島等がある。
とあるけれども、誰が見ても種子島や屋久島が存在するのは、大隅国の南である。
●さらに、
  ・屋久島は古代・近世は大隅に属したが、中世は永良部島とともに薩摩国に属し
とあるけれども、永良部島と言う島自体が存在しない。おそらく、これは口永良部島の誤りである。わずかこれだけの記述の中に、これだけの誤りがある。これでは、史料とすることは到底できない。

      おおすみぐん:大隅郡
   大隅国の郡名。大隅半島の中央部に位置する。古代には大隅半島から鹿児島湾岸に至る広大な郡域
  を有したが、中世にはいったん消滅し、近世以降は鹿児島湾岸に限定されるに至った。
  〔古代〕
   和銅6年大隅国建国の際、日向国より分割した4郡の一つ。「和名抄」の管郷は人野・大隅・謂
  列・姶・禰覆・大阿・支刀の7郡。他に「大隅国風土記」逸文には「大隅串卜郷」が見えるが、
  「和名抄」にはない。「和名抄」によれば、曽於郡にも人野郷が見えるので、人野郷が大隅・曽於郡
  の郡界と考えられる。また、姶羅郡に串伎郷と岐刀郷が見え、串伎は串卜であり、岐刀は支刀とと同
  じと考えられるので、おそらくは「和名抄」編纂以前に姶羅・岐(支)刀・串卜の各郷を結ぶ線あた
  りで大隅・姶羅両郡の郡界に変動があり、姶羅・串卜両郷は郡界の変動に伴って所属郡が変更された
  ものであろう。当郡所管の7郷の現在地比定については諸説があるが、人野は垂水市あたり、大隅は
  安楽川・菱刈川流域の志布志町・有明町・松山町から大崎町東部、大隅町月野にまたがる地、謂列は
  末吉町南部、姶は吾平町あたり、禰覆の覆は寝の誤りと考えられるので根占・大根占両町、大阿は
  鹿屋市大姶良地方、支刀は大隅・輝北両町と鹿屋市の各一部にわたる地と考えられる。(以下略)
●ここが問題の個所となる。
  ・大隅は安楽川・菱刈川流域の志布志町・有明町・松山町から大崎町東部、大隅町月野にまたがる地、
とある。ここが大隅郷だとする論の根拠がどこにあるのかがよく判らないけれども、ここを大隅郷とするには、相当無理がある。
●第一、
  ・大隅は安楽川・菱刈川流域の志布志町・有明町・松山町から大崎町東部、大隅町月野にまたがる地、
とあるけれども、菱刈川と言う川自体が此処には存在しない。おそらく菱田川の誤りかと思うけれども、あまりに杜撰な誤りばかりが目に付く。これを書いた人は、多分、鹿児島の人では無いのではないか。鹿児島の人がこういう誤りをすることはあり得ない。
●ここで指摘する、
  ・安楽川・菱刈川流域の志布志町・有明町・松山町から大崎町東部、大隅町月野にまたがる地
にしたところで、いわゆる南諸県郡に該当する地域である。本来、諸県郡は日向国の領域であって、大隅国ではない。多少の異動は時代に拠って違うだろうが、全体に関するような異動は考えられない。
●それに、大隅国は、肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡からなると言うのに、大隅郡がこのような大きさなら、残りの肝杯郡、囎唹郡、姶羅郡は、何処になるのだろうか。大隅国は、ほとんど大隅郡だけになっている。

      おおすみのごう:大隅郷
   〔古代〕平安期に見える郷名。大隅国大隅郡七郷の一つ。大隅国造の本拠地で、肝属川沿岸の古墳
  密集地帯、すなわち現在の東串良町・高山町、あるいはそこから大崎町に至る地域と考えられている
  (県史・国史大辞典2)。また一説に現在の垂水市大字垂水に当たるともいう(地名辞書)。
●角川日本地名大辞典の混迷は、尋常では無い。ここに、大隅国項目と大隅郡項目、大隅郷項目と、並べてみると、そのことがよく判る。まるで一貫性の無い記述となっていることに驚く。おそらく、記述者も、それぞれ異なるのではないか。
●加えて、まるで無責任な記述が続くことに驚く。誤りがあまりに多いのに、その記述様式がまるでバラバラで、到底、同一の書物の記述とは、信じられない。大隅郷項目では、その典拠を逐一、報告しているのに、大隅国項目や大隅郡項目には、それが一切無い。こんないい加減な記述法をしている書物も珍しい。

◎角川日本地名大辞典は、日本では、唯一無二とも言われる大辞典である。意外と、それはいい加減な書物であることに驚かされた。それもこれも、発端は、平田信芳の『国分物語』であった。平田信芳の『国分物語』は、昭和59年3月1日発行の「鹿児島県立国分高等学校 創立七十周年記念誌」に、特別寄稿されたものである。

◎大隅国大隅郡大隅郷は、何処か。それは五里霧中にあると言わざるを得ない。これは鹿児島県の問題だから、鹿児島県が解決すべき問題である。中央の学者先生に任せるから、こういう状況となる。何もご存じ無い学者先生に任せたところで、混迷は深まるばかりである。

◎大隅国大隅郡大隅郷は、何処か。それを理解するには、高隅山を理解するしかない。そんなことを感じたのは、昨年12月27日に、肝属川の河口に屹立する権現山から高隅山を遠望した時であった。それで5月2日に、高隅山の御岳と大篦柄岳に登って来た。そういうことを踏まえて、この話を書いている。

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