○大隅に関係して、これまで、『大隅国大隅郡大隅郷』、『大隅郡大隅郷』と、続けて書いている。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『大隅国大隅郡大隅郷』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41724352.html
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『大隅郡大隅郷』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41724931.html
○今回は、それに引き続き、『大隅郷』について、考えてみたい。前にも紹介しているが、平田信芳は『国分物語』と言う文章で、気になる記述をしている。
囎唹郡(昭和四七年四月以降は曽於郡と表記を改めた)は、現在、志布志湾沿岸一帯の郡名である
が、奈良・平安時代は今日の国分地方をその中心とする地名であった。熊曽国・球磨囎唹・熊襲など
と呼ばれた勢力の中心は、国分地方であったと考えてよい。(中略)
それでは、現在の曽於郡は、昔はなんと呼ばれていたのか。それは、大隅郡と呼ばれていたと考え
てよい。今日の志布志町一帯は、本来、大隅国大隅郡大隅郷という国名・郡名・郷名ともに共通する
地名をもっていたと考えられるが、志布志・松山・末吉など現在の曽於郡の境域は中世以降明治の中
葉まで日向国諸縣郡に所属していたがために、大隅国を代表するような地名も長い歴史の中で消滅し
てしまったのである。国・郡・郷の名称が一致していたのは、日本全国を眺めてみても、他に駿河・
出雲・安芸・土佐・丹後(丹波)があるだけの少ない例であっただけに、変動の激しかった歴史にた
だ驚くばかりである。(以下略)
○つまり、大隅国には、大隅国大隅郡大隅郷という国名・郡名・郷名ともに共通する地名が存在したとする。それは、全国でも、駿河・出雲・安芸・土佐・丹後(丹波)にあるだけだとする。平田信芳は、その大隅国大隅郡大隅郷が、志布志町一帯であったとしている。
○このことは、以前から、ずっと気になっていた。大隅国大隅郡大隅郷が、志布志町一帯であることは、幾ら何でもあり得ない。この地は、古来、ずっと、諸県郡であり続けたところであるからだ。それがどうして大隅国大隅郡大隅郷なのかは、極めて気になるところである。
○この話は、平田信芳オリジナルの説では無いようである。平田信芳はそれを案内しているに過ぎない。先日、図書館へ行き、角川日本地名大辞典では、どうなっているのかを、調べて来た。そうすると、大隅国大隅郡大隅郷は、諸説があって、必ずしも、平田信芳の言う、志布志町一帯で決まっているわけではない。それを整理すると、次の3案に集約される。
∥膓楼続收遏ι刈川流域の志布志町・有明町・松山町から大崎町東部、大隅町月野にまたがる地、
大隅国造の本拠地で、肝属川沿岸の古墳密集地帯、すなわち現在の東串良町・高山町、あるいは
そこから大崎町に至る地域と考えられている(県史・国史大辞典2)。
8什澆凌眇綮埖膸眇紊謀燭襪箸發いΑ蔽鰐昭書)。
○大隅郷が、
・安楽川・菱刈川流域の志布志町・有明町・松山町から大崎町東部、大隅町月野にまたがる地、
であることは難しい。何故なら、ここは古来、ずっと諸県郡であり続けているからである。それも諸県郡の根幹をなす地域である。そこは日向国であって、大隅国ではない。まして、大隅郡とか大隅郷であることは、あり得ない話である。諸県郡がどういうところであるかを、まるでご存じ無い方が考えた説であると言うしかない。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『大隅国大隅郡大隅郷』
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https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41724931.html
○今回は、それに引き続き、『大隅郷』について、考えてみたい。前にも紹介しているが、平田信芳は『国分物語』と言う文章で、気になる記述をしている。
囎唹郡(昭和四七年四月以降は曽於郡と表記を改めた)は、現在、志布志湾沿岸一帯の郡名である
が、奈良・平安時代は今日の国分地方をその中心とする地名であった。熊曽国・球磨囎唹・熊襲など
と呼ばれた勢力の中心は、国分地方であったと考えてよい。(中略)
それでは、現在の曽於郡は、昔はなんと呼ばれていたのか。それは、大隅郡と呼ばれていたと考え
てよい。今日の志布志町一帯は、本来、大隅国大隅郡大隅郷という国名・郡名・郷名ともに共通する
地名をもっていたと考えられるが、志布志・松山・末吉など現在の曽於郡の境域は中世以降明治の中
葉まで日向国諸縣郡に所属していたがために、大隅国を代表するような地名も長い歴史の中で消滅し
てしまったのである。国・郡・郷の名称が一致していたのは、日本全国を眺めてみても、他に駿河・
出雲・安芸・土佐・丹後(丹波)があるだけの少ない例であっただけに、変動の激しかった歴史にた
だ驚くばかりである。(以下略)
○つまり、大隅国には、大隅国大隅郡大隅郷という国名・郡名・郷名ともに共通する地名が存在したとする。それは、全国でも、駿河・出雲・安芸・土佐・丹後(丹波)にあるだけだとする。平田信芳は、その大隅国大隅郡大隅郷が、志布志町一帯であったとしている。
○このことは、以前から、ずっと気になっていた。大隅国大隅郡大隅郷が、志布志町一帯であることは、幾ら何でもあり得ない。この地は、古来、ずっと、諸県郡であり続けたところであるからだ。それがどうして大隅国大隅郡大隅郷なのかは、極めて気になるところである。
○この話は、平田信芳オリジナルの説では無いようである。平田信芳はそれを案内しているに過ぎない。先日、図書館へ行き、角川日本地名大辞典では、どうなっているのかを、調べて来た。そうすると、大隅国大隅郡大隅郷は、諸説があって、必ずしも、平田信芳の言う、志布志町一帯で決まっているわけではない。それを整理すると、次の3案に集約される。
∥膓楼続收遏ι刈川流域の志布志町・有明町・松山町から大崎町東部、大隅町月野にまたがる地、
大隅国造の本拠地で、肝属川沿岸の古墳密集地帯、すなわち現在の東串良町・高山町、あるいは
そこから大崎町に至る地域と考えられている(県史・国史大辞典2)。
8什澆凌眇綮埖膸眇紊謀燭襪箸發いΑ蔽鰐昭書)。
○大隅郷が、
・安楽川・菱刈川流域の志布志町・有明町・松山町から大崎町東部、大隅町月野にまたがる地、
であることは難しい。何故なら、ここは古来、ずっと諸県郡であり続けているからである。それも諸県郡の根幹をなす地域である。そこは日向国であって、大隅国ではない。まして、大隅郡とか大隅郷であることは、あり得ない話である。諸県郡がどういうところであるかを、まるでご存じ無い方が考えた説であると言うしかない。