○「麑藩名勝考」巻七、大隅國に、
同郡高隅郷上高隅郷
があって、「高隅嶽」項目が存在する。
高隅嶽
(高山の中なり、大隅・肝属両郡に跨る。鹿屋・花岡・新城・垂水・百引・牛根の六郷は、皆この
山下に環れり。)絶頂に至る二里。山峯の最高を大篦嶽と云ふ。(箭竹多きを以てなり。)この頂に
蔵王権現祠あり。その次なるを小篦妻嶽と云ふ。(新城に属す。)又鷹羽嶽(高隅の中なり。)又山
中に三所権現祠あり。
奉祀熊野大神(鹿屋上名村に属り。)
北郷久嘉詠める
高隅や峯の浮雲晴る日に光にみかく雪のさやけさ
○上記の話は、以下のブログで、案内済みである。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『「麑藩名勝考」:高隅嶽』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41715333.html
○また、「麑藩名勝考」は、串良について、以下のように載せている。
髪梳村(府東十三里)
大隅風土記曰髪梳村、髪梳者隼人俗語、久志郎今改曰串卜郷云々。和名鈔、作姶羅郡串伎もの是歟。
○「三国名勝図会」が載せる高隅嶽(串良)は、次のブログに載せている。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『三国名勝図会:高隅嶽(串良)』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41717448.html
○話が見えないと困るので、その内容を提示しておく。
串良(本府より辰の方、海陸十三里。地頭館岡崎村にあり。上古は髪梳、又久四良、
又串の一字、又九城と書たるもあり。當邑は即ち串良郷にて、郷の高隅村を除く
のみ。高隅村は高隅邑とす。)
高隅嶽(地頭館より亥子の方、三里十八町許。)
當邑の別地に係る。明暦二年、串良の地を割て、高隅邑を置かる。同四年、其八鹿倉の山を
當邑に属らる。即ち此處なり。但し其地土壌隔る故、東北は高隅、西は垂水、南は鹿屋に境を
接す。高隅嶽の全體は、高隅邑の篇に詳なり。
高隅川
上流は高隅邑より流れ来て、當邑の内、細山田村、有里村、岩廣村、岡崎村、中別府村を経
て、柏原村に至り、下流肝属川に會す。平駄船、岩廣村まで自在に通ず。
肝属川
當邑と、高隅との境を流れ通るを以て、土俗に境川とも称す。上流は姶良大川鹿屋川會流して、
高山宮下村を過ぎ、當邑上原村、中別府村等と、高山との境を経て、海に入る。海口より上流拾町
許の間、灣港をなす。柏原浦といふ。高山波見浦に対す。五百石積の舶、満潮の時、出入自由にて、
平駄船の如きは、上流三里半程運漕すべし。海口の状は、高山の篇、波見浦に詳なり。
○柏原浦::前文に見ゆ。柏原村にあり。
●前に、垂水の枕詞として、枕詞『おおすみの』が成立する話を書いた。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『大隅の垂水』
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/41727961.html
●そこでは、枕詞『おおすみの』について、次のように述べている。
・たまたま、高隅山が気になって、高隅地名を追い続けているうちに、大隅地名がこれに連動するの
ではないかと考えるようになった。大隅国の最高峰が高隅山である。しかし、意外に、高隅山がどう
いう山であるかについて、理解されていないような気がしてならない。
・高隅山は信仰の山だと言いながら、その信仰形態すら、満足に明らかにされていないのが現状では
ないか。それは、どうしてか。それは、高隅山の信仰自体が高隅山として存在するものと、垂水嶽と
して存在するものとは、全く別物だからである。誰もそういうことに言及していない。
・枕詞『おおすみの』が垂水に掛かる枕詞であることは、間違いあるまい。ただ、それを丁寧に検証
する作業がまだ残っている。しばらく時間を掛けて、十分な検証を行いたい。
・2019年5月12日に、スマン峠登山口(680叩砲ら大篦柄岳(1236叩法⊂篦柄岳
(1149叩法∈奮抻劃此複隠隠苅記叩砲氾个辰突茲拭この山行で、もっとも感動したのは、大篦
柄岳山頂でも無く、小篦柄岳山頂でも妻岳山頂でもなかった。スマン峠から下山する途中に、一九坂
があって、ここに水場が設けられている。そこでは、小さな谷川が垂水となって流れているのであ
る。まさに、ここが『大隅の垂水』の現場である。そういうふうに感じた。
・万葉時代は、すでに枕詞の終焉期である。それ程、枕詞は古い。そういうものが、現代に於いて
も、ふんだんに巷に転がっているのが日向国である。枕詞を理解しようとすれば、日向国を訪れるに
如くは無い。
●同じように、串良の枕詞として、枕詞『たかくまの』が成立することも間違いない。串良とは、何とも珍妙な地名である。それが何処から来ているかは、なかなか理解し難い。しかし『たかくまのくしら』だと考えると、容易に理解される。もっとも、串良や高隅から高隅山を眺めたことの無い方には、理解されないかも知れないが。
●串良や高隅からは、毎日、四六時中、高隅山を眺めて暮らしているわけである。それだけではない。串良や高隅の人々は、陰に陽に、高隅山から流れ出る串良川の恩恵で生活している。それは、陶淵明が「飲酒其五」で謳う世界そのものである。
採菊東籬下 菊を採る東籬の下
悠然見南山 悠然として南山を見る
世界に、陶淵明が見たものは、
此中有眞意 此の中に真意有り
欲辯已忘言 弁ぜんと欲して已に言を忘る
だと、陶淵明は言う。このことについて、日本の明治の文豪、夏目漱石は、次のように説明する。
うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。
採菊東籬下 菊を採る、東籬の下、
悠然見南山 悠然として南山を見る
ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる
訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去
った心持ちになれる。 「草枕」
◎『たかくまのくしら』とは、何とも立派な表現である。それが串良地名の起源でもある。「麑藩名勝考」は、それを、
大隅風土記曰髪梳村、髪梳者隼人俗語、久志郎今改曰串卜郷云々。
と案内するけれども、そんなことはない。それは串良や高隅から高隅山を眺めたことの無い方の言い草に過ぎない。『たかくまのくしら』は、実に神々しい風景なのである。それを見に出掛けるだけの価値が『たかくまのくしら』にはある。だから枕詞になり得る。是非、お出掛けを。