○遣唐使船南島路と言うルートがある。なかなか世に出ないルートでもあるので、ここで触れておきたい。最初に、ウィキペディアフリー百科事典が案内する遣唐使から見ておきたい。
遣唐使
遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に
交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い[1]
『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋
が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)
に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、
そのまま消滅する形となった[2]。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・
僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
○この中に、「航路と遣唐使船」項目が存在し、航路と遣唐使船について、詳しく触れている。
航路と遣唐使船
遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀
り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川停留場)
から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那大津(福岡県福岡市博多
区)に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。
1)北路
北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半
島の登州へ至るルート。
630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化[43]により使用しなくなった。
2)南路
五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。
702年から838年までの航路。
3)南島路
薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。
杉山宏の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により南路から外れた場
合にやむを得ずとった航路と考えられ[44]、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないと
する説もある[45]。
遣唐使
遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に
交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い[1]
『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋
が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)
に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、
そのまま消滅する形となった[2]。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・
僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
○この中に、「航路と遣唐使船」項目が存在し、航路と遣唐使船について、詳しく触れている。
航路と遣唐使船
遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀
り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川停留場)
から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那大津(福岡県福岡市博多
区)に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。
1)北路
北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半
島の登州へ至るルート。
630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化[43]により使用しなくなった。
2)南路
五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。
702年から838年までの航路。
3)南島路
薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。
杉山宏の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により南路から外れた場
合にやむを得ずとった航路と考えられ[44]、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないと
する説もある[45]。