○雪竇山文学を探索している時、方干の「登雪竇僧家」詩や「題雪竇禅師壁」詩を見付けた。詩を読むと、方干が敬虔な仏教徒であることが判る。
○その方干に、「送僧帰日本」詩があるのを見付けた。方干(809—888)は唐代の詩人である。方干が見た日本人僧は、おそらく遣唐使船で中国に渡って来たのであろう。それが誰だったのか、非常に気になるところである。
○遣唐使は、舒明2年(630年)から始まって、寛平6年(894年)に廃止されるまで20回ほど実施されている。264年間で20回だから、平均しても、13年に一回渡航したことになる。しかし、その航海は困難を極め、満足な航海がなされたこと自体が稀なほどだった。
○遣唐使船で、多くの日本人僧が中国に渡っている。その中の一人が方干「送僧帰日本」詩の僧なのであろう。それはひどく気になる。
○方干「送僧帰日本」詩は、次の通り。
【原文】
送僧帰日本
方干
四極雖雲共二儀
晦明前后即難知
西方尚在星辰下
東域已過寅卯時
大海浪中分国界
扶桑樹底是天涯
満帆若有帰風便
到岸猶須隔歳期
【書き下し文】
僧の日本に帰るを送る
方干
四極は雲かなりと雖も、共に二儀、
晦明前后も、即ち知り難し。
西方尚ほ在り、星辰の下、
東域已に過ぐ、寅卯の時。
大海の浪中、国界を分かち、
扶桑樹の底、是れ天涯。
満帆の帰風の便有るが若きも、
岸に到るは、猶ほ須らく歳期を隔つべきがごとし。
【我が儘勝手な私訳】
世界の果てはどんなに遠いとは言っても、それは天地の中に存在する。
夜昼の前後さえ、そこではすぐには容易に理解し難い。
西方世界では、まだ夜が始まったばかりだと言うのに、
東方世界では、すでに夜明けが始まろうとしている。
東海の大海の中に、日本国は存在し、
日本国は扶桑樹の下にあって、まさに日本国は世界の東の涯なのである。
日本国へ帰るには、満帆の順風がどんなに吹いてくれたとしても、
日本国へ到るには、それでも、およそ一年の歳月を当然覚悟しなくてはならないだろう。
○方干「送僧帰日本」詩を読むと、どんなに日本が中国から遠いかが判る。そのことを方干は、
四極雖雲共二儀 四極は雲かなりと雖も、共に二儀、
と表現し、
晦明前后即難知 晦明前后も、即ち知り難し。
と述べる。何とも遠い遙かな国が日本なのである。
○その日本へ帰るには、
満帆若有帰風便 満帆の帰風の便有るが若きも、
だったとしても、
到岸猶須隔歳期 岸に到るは、猶ほ須らく歳期を隔つべきがごとし。
の時間を要する。
○方干がこうやって、何とも立派な詩を創って、日本人僧を送別してくれているのを読むと、何とも嬉しい気になる。それは今から1200年も昔のことなのに。
○16世紀にも、王陽明が了菴和尚の為に立派な序文をものしている。
書庫「伊地知季安「漢学起源」を読む」:ブログ『王陽明と交流のあった日本人』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/13154836.html
○古くは、王維が阿倍仲麻呂(698~770)へ贈った「送秘書晁監還日本國」詩もある。
送祕書晁監還日本國 祕書晁監の日本國に還るを送る
王維
積水不可極 積水極むべからず、
安知滄海東 安くんぞ滄海の東を知らん。
九州何處遠 九州何れの處か遠き、
萬里若乘空 万里空に乗ずるが若し。
向國惟看日 国に向かって惟だ日を看、
歸帆但信風 帰帆は但だ風に信すのみ。
鰲身映天 鰲身は天に映じて黒く、
魚眼射波紅 魚眼は波を射て紅なり。
樹扶桑外 樹は扶桑の外、
主人孤島中 主人は孤島の中。
別離方異域 別離方に域を異にす、
音信若爲通 音信若爲ぞ通ぜんや。
○王維の「送秘書晁監還日本國」詩は、なかなか格調高いものであるけれども、方干の「送僧帰日本」詩のような情愛を感じない。方干にとって、この日本人僧は相当親しい存在だったに違いない。
○また、方干には、日本に関して、次のような詩もある。
送人遊(一作之)日本国
方干
蒼茫大荒外
風教即難知
連夜揚帆去
経年到岸遅
波涛含左界
星斗定東維
或有帰風便
当為相見期