○雪竇山文学を探索していたら、「雪竇寺住持僧慈舟書『邀月』」詩にぶち当たった。雪竇山文学のほとんどの詩が外からの訪問者の作品であるのに対し、「雪竇寺住持僧慈舟書『邀月』」詩は、雪竇寺に住持する僧の詩である。
【原文】
雪竇寺住持僧慈舟書《邀月》
妙高台上月光明
古往今來有勝名
歴代名流皆仰慕
登台能洗世塵心
載酒作歌情意切
賞月賦詩展胸襟
酒酣起舞影亦醉
形態婆娑雜歩吟
名篇佳句難收盡
水調歌頭絕古今
山僧邀月懷往事
留待後賢續前因
【書き下し文】
雪竇寺住持僧慈舟書《邀月》
妙高台上、月光明かるく、
古往今來、勝名の有り。
歴代の名流、皆仰慕し、
登台しては、能く世塵の心を洗ふ。
載酒し作歌せば、情意は切なり、
賞月し賦詩して、胸襟を展く。
酒酣し起舞せば、影も亦た醉ひ、
形態は婆娑にして、雜歩し吟ず。
名篇佳句、收盡することは難けれど、
水調歌頭、古今を絕つ。
山僧邀月して、往事を懷かしみ、
後賢の留待して、前因に續かんことを。
【我が儘勝手な私訳】
雪竇寺を住持する僧、慈舟の「月を褒め称える」詩
雪竇山雪竇寺に住持していると、東の妙高台の上から明るい月が昇って来る、
古今往来、此処、雪竇山雪竇寺は観月の地として名高い。
歴代の風流文士たちは、皆、雪竇山雪竇寺を敬慕し、
雪竇山雪竇寺に参詣しては、存分に俗世の塵垢を洗い落とすのだ。
酒を飲み、詩を作ろうとすると、感情と意志とが高ぶって興奮して来るが、
月を愛で、詩を作ることに拠って、思っていることをすっかり打ち明けることが出来る。
酒に酔い、舞を舞うと、それに従って影もまた酔い、舞う、
その様子は、クルクル舞う婆娑起舞そのもので、千鳥足歩きしては詩を吟ずる。
そのようにして創られた名詩佳句を、尽く記録することは難しいけれども、
それらの麗詩秀句は、今まで見たことのない傑作揃いである。
雪竇山雪竇寺に住持している私としては、そういう雪竇山雪竇寺での観月の故事を振り返り、
後世の賢人たちが雪竇山観月の伝統を継承してくれることを願うばかりである。
○著名詩人の作と違って、朴訥な語りかけるような表現が何とも佳い。雪竇山雪竇寺で胸襟を開いているのは雪竇寺を住持する僧、慈舟なのである。「邀月」と題しながら、格別、観月に執着するわけでもない。慈舟にとって、作詩は、あくまで、余技に過ぎない。
○古来、日本でも、観月の習いは、何処にでも存在する。俳聖芭蕉に「更科紀行」の小文がある。貞享5年(1688)8月11日に美濃を発ち、8月15日に姨捨山で『田毎の月』を愛でている。その間の距離は、およそ250辧45歳の芭蕉が4泊5日で、これを歩いているのに驚く。まさに執念と言う外無い。
○ただ、芭蕉には誤解があるのであって、『田毎の月』は中秋の名月を愛でる習いではない。
月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月
と言うから、誰でもが旧暦8月15日の中秋の名月を賞賛し、観月する。
○普通、月は見上げて観賞するものと決まっている。しかし、『田毎の月』は見下げて観賞する。それに旧暦8月15日に姨捨山を訪れたところで、『田毎の月』は出現しない。『田毎の月』が出現するのは、梅雨の季節であることを芭蕉は知らない。まさに、
わが心 慰めかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て
ほかないのである。
○泊如竹先生にも『仲秋』の名詩がある。
【原文】
仲秋
獨仰清光三五秋
天涯萬里憶同遊
呼童相對語京洛
昔日心知共上樓
【書き下し文】
仲秋
獨り清光を仰ぐ、三五の秋。
天涯萬里、同遊を憶ふ。
童を呼びて、相對し、京洛を語る。
昔日の心知、共に樓に上る。
【我が儘勝手な私訳】
十五夜
たった一人で、勿体ないような月光を浴びている八月十五日の夜である。
遥か遠くに隔たって居る京師の同門同学の人々が、なぜか思い出されてならない。
今日の昼間に、近所の子供達を呼び集めて、京の都の様子を語ったからであろうか。
そう言えば、昔、若い頃、京で、知友と一緒に寺の御堂に登って、
美しい八月十五日の月を眺めたことを思い出した。
○如竹先生が眺めている月は、海から出現する。如竹先生は屋久島安房の本佛寺の住持である。紀貫之「土佐日記」にも、海から出る承平五年(935年)一月二十日の月が出ている。
二十日。昨日のやうなれば、舟出ださず。皆人々、憂へ嘆く。苦しく心許なければただ日の経ぬる
数を、今日幾日、二十日、三十日と数ふれば、指もそこなはれぬべし。いと侘びし。夜は寝も寝ず。
二十日の、夜の月出でにけり。山の端も無くて海の中よりぞ出で来る。
○この後、紀貫之が案内するのは阿倍仲麻呂の名歌である。
天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
もっとも、紀貫之は、わざわざ冠を「青海原」に変えている。
○まさに、
月見れば千々に物こそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど
「古今集」巻四:秋上:大江千里
と言うしかない。