○2013年10月17日朝、南京玄武湖を訪れた。玄武湖公園解放門から入り、台菱橋を渡って菱洲から環洲を経て、玄武門まで歩いた。およそ2劼らいである。
○その際、菱洲の玄武門から真っ直ぐ環洲へ行った先に、童子拝観音石が存在した。その奥に郭璞墩が存在することを、玄武湖を調べている時に知った。
○中国の検索エンジン百度『百度百科』では、郭璞墩を郭仙墩として、次のように載せる。
郭仙墩
郭璞墩俗称郭仙墩。郭璞(276-324),字景纯,河东闻喜(今山西)人,东晋文学家、训诂学家。
博学多才,好古文奇字,曾注释《尔雅》、《山海经》、《楚辞》等。明人辑有《郭弘农集》。
他精于阴阳算历五行之术,因其卜筮极准,人称其为“郭仙”。西晋末南渡,依司马睿任著作佐郎,
迁尚书郎,后任王郭记室参军,以卜筮谏阻其谋反,被杀。及乱平,晋王朝视其为抗节不屈的第一忠臣,
追赠为“弘农太守”。郭璞墩为一隆起的小山,为其衣冠冢,故称。墩上原有碑亭一,谓之“郭亭”。
山上曾有淞沪抗日阵亡将士纪念碑,山脚下有拱形角铁门,门上书“浩气长存”额。1992年列为南京市
文物保护单位。郭璞墩在玄武湖环洲西北部,位于假山瀑布与芳桥之间。
http://baike.baidu.com/link?url=2zhIsRgPFva70VfUVGYnDdI8MbD0PF8_qoX7WhkFCZhMgGEiYrWmU7kcmLZJYfQg
○『百度百科』が載せる郭璞は、次の通り。
郭璞
郭璞(pú)(276年—324年),字景纯,汉族,河东闻喜县人(今山西省闻喜县),西晋建平太守郭瑗
之子。东晋著名学者,既是文学家和训诂学家,又是道学术数大师和游仙诗的祖师,他还是中国风水学
鼻祖,其所著《葬经》。
西晋末年战乱将起,郭璞躲避江南,西晋末,被王敦任为记室参军。324年,敦欲谋反,命他占卜,
璞言必败,被杀,时年49岁。晋明帝在南京[1]玄武湖边建了郭璞的衣冠冢,名“郭公墩”。郭璞是风
水界的泰山北斗,风水:气乘风则散,界水则止,山主人丁,水主财。风生水起鱼水堂五行属水主管财
富、智慧。
中文名:郭璞 别名:郭景纯 国籍:中国(东晋) 民族:汉族
出生地:河东闻喜县(今山西省闻喜县) 出生日期:276年 逝世日期:324年
职业:风水学者,文学家,训诂学家 信仰:儒学
主要成就:注释《周易》和《楚辞》注解《尔雅》。风水学鼻祖。道学术数大师。游仙诗祖师。
代表作品:《葬经》,《游仙诗》十四首,《江赋》
http://baike.baidu.com/link?url=EyL9fs4TtvqoDpaa8k6ZCblTpwbRJaquLvdyFZEq72qD341zdJ2DfhzB8uakpKNP
○日本のウィキペディアフリー百科事典が案内する郭璞は、次の通り。
郭璞
郭璞(かく はく、276年 - 324年)は、中国西晋・東晋の文学者・卜者。字は景純。本籍地は河東
聞喜(現山西省)。文才と卜占の術により建国まもない東晋王朝の権力者たちに重用され、史書や
『捜神記』などの志怪小説では、超人的な予言者・妖術師として様々な逸話が残されている。卜占・
五行・天文暦法に通ずるのみならず、古典にも造詣が深く、『爾雅』『方言』『山海経』に注したこ
とで知られる。文学作品では「遊仙詩」「江賦」などが代表作とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E7%92%9E
○郭璞は3世紀から4世紀にかけての人物である。郭璞墩が郭仙墩と称されるほど、郭璞は、やはり、仙術を得意としていたのであろう。『百度百科』は、郭璞の信仰を「儒学」と規定しているけれども、郭璞は仙人とするのが正しい評価ではないか。风水学鼻祖・道学术数大师・游仙诗祖师とされる人物が儒家に収まるものではあるまい。
○南京玄武湖の郭璞墩は、郭璞の衣冠冢であると言う。衣冠冢が築かれる人物は、そう居ない。郭璞は衣冠冢が築かれるに相応しい人物なのであるに違いない。甚だ気になる人物である。
○2013年10月17日、南京玄武湖を訪れ、童子拝観音石までは出掛けた。その奥に郭璞墩が存在することは理解していたが、何しろすっかり疲れ果てていた。奥まで入って郭璞墩に参拝する気力が無かった。再度、ゆっくりやって来いと言う郭璞の思し召しだろうと判断した。南京は広い。なかなか全てを廻ることは難しい。