○「魏志倭人伝」を読んでいるうちに、ふと、陳寿が「魏志倭人伝」で伝えたかったものは、何なのだろうと思った。いわゆる主題と言われるものである。「魏志倭人伝」の主題は、一体、何なのだろうか。
○今更、「魏志倭人伝」の主題などを問題にすること自体、変な気がしないでもないが、改めて、「魏志倭人伝」の主題を問題にすると、意外と、「魏志倭人伝」の主題は問題にされていないことが判る。
○結論から先に述べると、「魏志倭人伝」の主題は、どう考えても、『倭国三十国の全貌』以外に考えられない。「三国志魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条(通称「魏志倭人伝」)で、陳寿がもっとも述べたいものが他にあるとは思えないからである。
○それでは、「魏志倭人伝」の主題である『倭国三十国の全貌』は、どうなっているのだろうか。「魏志倭人伝」で、もっとも肝心肝要な『倭国三十国の全貌』紹介する本は、それほど多くはないし、その全てがまるで見当違いなものばかりであることに驚く。要するに、未だ誰も「魏志倭人伝」の主題である『倭国三十国の全貌』すら掴めていないことが判る。
○その「魏志倭人伝」の主題である『倭国三十国の全貌』も、私説の結論を先に案内すると、次のようになる。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
○「三国志」の編者、陳壽と言う男が、どんなに偉大な史家であるかが、この『倭国三十国の全貌』を見るだけで、容易に理解されよう。ところが、日本では、その「魏志倭人伝」に対する評価は極めて厳しい。例えば、ウィキペディアフリー百科事典の「魏志倭人伝」の項目にも、次のようにある。
しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと、多様な解釈を可能とす
る記述がなされていることから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。 また一方で、岡田英
弘など魏志倭人伝の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。岡田は位置関係や里程にズ
レが大きく信頼性に欠ける点を根拠として挙げている。
○「魏志倭人伝」の評価が、
・必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと
・多様な解釈を可能とする記述がなされていることから、邪馬台国に関する論争の原因になっている
・魏志倭人伝の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいる。
・位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける
などと言うのは、まるで承知できない話である。それは、あくまで、読み手の側に問題があるに過ぎない。それは、読み手に、「魏志倭人伝」を読み解く十分な判断力が欠如していると言うしかない。
○もともと、中国の史書は、専門の史家のみを対象としている書物であって、決して、一般の読者を相手にしているわけではない。本来、中国の史書は、読めないのは、あくまで、読者の側に問題があるとされるものなのである。それほど高度な読書が要求される本を読んで、上記のような評価を下すことは、まるで見当違いな話である。
○そういうことをよく伝える文を、京都大学の宮崎市貞が書いているので紹介しておく。
このように『史記』においては何よりも、本文の意味の解明を先立てなければならないが、これは
古典の場合已むを得ない。古典の解釈は多かれ少なかれ謎解きであって、正に著者との知恵比べであ
る。そしてこの謎解きに失敗すれば、すっかり著者に馬鹿にされて了って、本文はまっとうな意味を
伝えてくれないのである。 (「宮崎市定全集5 史記」自跋)
○自分に読めないから、その書物がおかしいと判断する。それで、自分は正しいし、間違いないと思っている。決して自分の判断に誤りを見出そうとはしない。現代人は極めて偉いのである。
○中国の史書に関する限り、こういう判断はまるで通用しない。中国では、圧倒的に書物の方が偉いのである。読めないのは全て読者の側に問題があるとされる。「魏志倭人伝」も、そういう読み方をしない限り、多分、真実には近付けない。
○そういうふうに「魏志倭人伝」を読んで、出て来た主題が上記した倭国三十国の全貌である。ここには倭国の鳥瞰図がある。これ以上、きれいに誰が倭国三十国を案内できるだろうか。何とも陳壽が恐ろしい男であることが判る。
○もちろん、「魏志倭人伝」だけを読んでいては、こういう鳥瞰図は見えて来ない。司馬遷の「史記」や「三国志」を楽しんで読む習慣がない限り、無理な話である。中国の史書は、史書ではなく、文学として捉えない限り、読むことは難しい。
○日本の歴史学者がいくら奮闘努力したところで、「魏志倭人伝」を読むことはできないのではないか。それは「史記」や「三国志」は単なる史書ではないからである。「史記」や「三国志」は文学として読まない限り、読むことは難しい。
○まして、一介の遺跡や遺物から邪馬台国を追い求めるなどと言う途方もない妄想に駆られた考古学者には、到底受け入れ難い話であろう。
○ただ、話は甚だ、単純である。邪馬台国も卑弥呼も「魏志倭人伝」に書かれた史実である。その「魏志倭人伝」を離れて邪馬台国も卑弥呼も存在しない。それだけのことである。
○もうそろそろ、邪馬台国畿内説とか、邪馬台国北九州説などと言う、共同幻想から脱却して、真剣に真実を見詰める時代なのではないか。共同幻想は現実ではないから、自由勝手に放言できるし、責任も無い。しかし、学者なら、それは絶対にしてはならないことである。
○すでに邪馬台国は発見されている。真実は強い。時代とともに、幻想は消え去る運命でしかない。そこには共同幻想から目覚めた後の、恐ろしい現実が待ち受けている。そういう厳しい現実に立ち向かう考古学者が、果たしてどれくらい居るだろうか。