○南京文学と言えば、誰でもが思い浮かべるのは、杜牧の「江南春」詩ではないか。
【原文】
江南春
杜牧
千里鶯啼緑映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中
【書き下し文】
江南の春
杜牧
千里鶯啼いて緑紅に映ず、
水村山郭酒旗の風。
南朝四百八十寺、
多少の楼台煙雨の中。
【我が儘勝手な私訳】
金陵に春が訪れると、四方八方に鶯の啼き声がし、木々の緑は花の紅色と見事に映じ合っている。
金陵に春が訪れると、水辺の村でも山間の村でも、何処でも酒屋の旗は始終春風に靡いている。
古都金稜の町中には、それこそ無数と言って良いくらい、六朝以来の諸寺が存在するけれども、
それらの諸寺の楼台が、今、烟るような春雨の中に静かに佇んでいるのを見ると感動する。
○起句『千里鶯啼緑映紅』の文言は、まさに「江南の春」に相応しい表現だし、それに続く承句『水村山郭酒旗風』もまた、躍動感に溢れている。江南の春は、一挙に訪れ、全てを春一色に染め上げていることが判る。
○詩の前半が豪華絢爛な春なのに、詩の後半は一変する。転句『南朝四百八十寺』が醸し出す雰囲気がまた実に佳い。絶句起承転結の構成が遺憾なく発揮されている詩だと言えよう。私たち読者は、起句・承句に拠って、眼前の江南の春の風景を満喫していることを理解する。
○それが唐突に、転句『南朝四百八十寺』を持ち出されて戸惑う。その落差が実に見事と言うしかない。なかなか詩人は曲者である。ただ、このような変化を結句でまとめるのが容易なことでは無いことも、同時に理解する。そして、詩人の実力がどれくらいのものであるかを期待すぜにはいられない。
○結果、詩人が導き出した結句が『多少楼台煙雨中』であることに、誰もが驚き、納得する。詩の前半部の華やかさに比べて、何と、後半部の落ち着いていることか。前半部が天然色の動画であるならば、後半部は一幅の墨一色の山水画となっている。
○忘れてならないのは、この詩の主題である。表題「江南春」の主題が結句にあることは間違いない。つまり、起句『千里鶯啼緑映紅』も、承句『水村山郭酒旗風』も、この詩では前置きであり、飾りに過ぎない。あまりに前半部が立派過ぎて、衆目は自然とそちらへと向く。しかし、詩人の眼目はあくまで、結句『多少楼台煙雨中』に存在するのである。
○詩は、よく誤解されて読まれている。特に、起句や承句が立派だと、それが独立して一人歩きしてしまい、肝心の詩人の心持ちなど、完全に無視されてしまう。それはあんまりと言うものである。
○例を挙げると、孟浩然「春暁」詩などは、その典型と言えよう。孟浩然「春暁」詩で、『春眠暁を覺えず』は、どうでも良いことなのである。しかし、多くの人は、孟浩然「春暁」詩が『春眠暁を覺えず』であると信じて疑わない。詳しくは、以下を参照されたい。
・書庫「庭の博物誌」:ブログ『「春暁」ー孟浩然ー』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/23397757.html
○同じように、杜牧の「江南春」詩も、多くの方に誤解されているのではないか。詩人が訴えたいのは、決して、起句『千里鶯啼緑映紅』や承句『水村山郭酒旗風』などではない。詩は創作物であることを忘れてはなるまい。小林秀雄風に述べるならば、『詩人の苦い心』が隠れてしまったことになる。
○まあ、『天然色の動画』を見せられた後に、『一幅の墨一色の山水画』を見たところで、誰もが『天然色の動画』に夢中になるのは、当然の帰結かも知れない。しかし、詩人の見たものは、あくまで、『一幅の墨一色の山水画』であり、見て欲しいものも、『一幅の墨一色の山水画』なのである。なかなか、詩人のそういう創意工夫が理解されない。
○それほど、起句『千里鶯啼緑映紅』や承句『水村山郭酒旗風』の創作が良すぎたのだろう。なかなか『詩人の苦い心』を理解することは難しい。
●杜牧「清明」詩も、なかなか佳い。参考までに。
・書庫「九華山・黄山』:ブログ『杜牧:清明』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38400608.html