○在原業平が隅田川を訪れたのは9世紀の話である。そのことについての記述が「古今和歌集」巻九:羇旅歌と、伊勢物語」第九段『東下り』にある。「伊勢物語」の『東下り』は、次の通り。
昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ。東のかたに住むべき国
求めにとてゆきけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。道知れる人もなくて、惑ひ行
きけり。三河の国八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋と言ひけるは、水ゆく川のくもでなれば、橋を
八つ渡せるによりてなむ、八橋と言ひける。その沢のほとりの木の蔭に降りゐて、乾飯食ひけり。そ
の沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文
字を句の上に据ゑて、旅の心をよめ。」と言ひければ、よめる。
唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、皆人、乾飯の上に涙落として、ほとびにけり。
行き行きて、駿河の国に至りぬ。宇津の山に至りて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つ
た・かへでは茂り、もの心細く、すずろなる目を見ることと思ふに、修行者会ひたり。「かかる道は、
いかでかいまする。」と言ふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつ
く。
駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。
時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ
その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻のやうに
なむありける。
なほ行き行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。それを隅田川と言ふ。その
川のほとりに群れゐて、思ひやれば限りなく遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡しもり、「は
や舟に乗れ、日も暮れぬ。」と言ふに、乗りて渡らむとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人な
きにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の、はしと足と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ
魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふ
を聞きて、
名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。
○以来、『東下り』は文芸の伝統的様式となり、『海道下り』として知られるようになった。「平家物語」や「太平記」などが名文として人口に膾炙している。
○もっとも、『東下り』の歴史は相当古い。景行天皇の御代に、すでに倭建命が東下りしている。「古事記」の倭建命から『東下り』の歴史は始まると言えるのではないか。
○面白いことに、『あづま』地名起源を「古事記」「日本書紀」とも、倭建命に求めている。判りやすいのは「日本書紀」の記述である。
時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情。故登碓日嶺、而東南望之三嘆曰、「吾嬬者耶。」
故因号山東諸国、曰吾嬬国也。
時に日本武尊、毎に弟橘媛を顧びたまふ情有します。故、碓日嶺に登りて、東南を望りて三たび嘆き
て曰はく、「吾嬬はや。」とのたまふ。故因りて山の東の諸国を号して、吾嬬国と曰ふ。
○ただ、「古事記」と「日本書紀」とでは、場所が違っている。「古事記」は足柄峠であり、「日本書紀」の方は碓氷峠となっている。
○『あづま』の概念は、時代によって動き、極めて判りにくい。畿内の東は、もう『あづま』とする時代もあったりする。ただ、「古事記」「日本書紀」が足柄峠・碓氷峠を境としていることは興味深い。
○その点、「伊勢物語」『東下り』は、文中に、三河国・駿河国・武蔵国・下総国を案内している。もちろん、これが東海道であることは言うまでもない。男は、
身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ。東のかたに住むべき国求めにとてゆきけり。
と言って、新天地を東国に求めている。そいういう魅力的な世界が東国だったのではないか。
○隅田川を歌枕にしたのは、「伊勢物語」であろう。以来、多くの文芸に隅田川は扱われている。その隅田川が江戸下町として庶民の生活の場となって来た。そこに新設されたスカイツリーは、隅田川にどんな新しい展望を拓くのだろうか。