○前回、「揚州詩咏」(李保華著)から、李益の『汴河曲』詩を案内した。今回紹介するのは、皮日休の『汴河懷古二首』詩である。李益(約750~830)が中唐の詩人だったのに対し、皮日休(約838~883)は晩唐の詩人である。
【原文】
汴河懷古二首【其一】
皮日休
萬艘龍舸絲間
載到揚州盡不還
應是天教開汴水
一千餘里地無山
【書き下し文】
汴河懷古二首【其一】
皮日休
萬艘龍舸、絲の間、
載せて到る揚州、盡く還らず。
應に是れ、天の汴水を開けしむべし。
一千餘里の地に、山は無し。
【我が儘勝手な私訳】
嘗て、隋の煬帝が多くの豪華に飾った大船を浮かべて、楊の茂る汴河を航行したが、
その隋の煬帝は揚州で殺され、もう再び帰って来ることは無い。
まさしく、天が隋の煬帝をしてこの地に汴河を開掘、開通させたに違いない、
揚州は千里四方に、何処にも山が見えないところであるから。
【原文】
汴河懷古二首【其二】
皮日休
盡道隋亡為此河
至今千里通波
若無水殿龍舟事
共禹論功不較多
【書き下し文】
汴河懷古二首【其二】
皮日休
盡く道ふ、隋の亡ぶは此の河の為なると、
今、千里を至りて、波の頼通す。
若し、水殿龍舟の事無ければ、
禹と共に論功は多く較べず。
【我が儘勝手な私訳】
誰もが言って憚らない、隋王朝の滅亡は大運河建設が原因であると、
今でも、大運河は中国の北と南とを直結する大事な水路となっている。
もし、隋の煬帝が豪華絢爛な大船を浮かべて汴河遊覧しなければ、
隋の煬帝は古代の聖王禹と、その論功は比較されるほどの大事業であったのに。
○中国の検索エンジン百度の「百度百科」が案内する皮日休は、次の通り。
皮日休
皮日休(约838—约883),晚唐文学家。字袭美,一字逸少,汉族,今湖北天门人。一位道、儒兼修
的学者。曾居住在鹿门山,自号鹿门子,又号间气布衣、醉吟先生、醉士等。晚唐诗人、文学家,与陆
龟蒙齐名,世称"皮陆"。咸通八年(867)进士及第,在唐时历任苏州军事判官(《吴越备史》)、著
作佐郎、太常博士、毗陵副使。后参加黄巢起义,或言“陷巢贼中”(《唐才子传》),任翰林学士,
起义失败后不知所踪。诗文兼有奇朴二态,且多为同情民间疾苦之作。被鲁迅赞誉为唐末“一塌糊涂的
泥塘里的光彩和锋芒”《新唐书·艺文志》录有《皮日休集》、《皮子》、《皮氏鹿门家钞》多部。
http://baike.baidu.com/view/11081.htm?fr=aladdin
○また「百度百科」には『汴河怀古二首』項目も存在する。
汴河怀古二首
《汴河怀古二首》是唐代文学家皮日休的组诗作品。第一首诗描述了隋炀帝游览扬州的豪华船队以及
大运河的地理环境,隐含了隋炀帝被部将所杀的历史事实以及对唐王朝的警示。
第二首诗从隋亡于大运河这种论调说起,接着反面设难,批驳了修大运河是亡国之举的传统观点,从
历史的角度对隋炀帝的是非功过进行了评价。全诗立意新奇,议论精辟,不失为唐代怀古诗中的佳品。
http://baike.baidu.com/view/3356690.htm?fr=aladdin
○上記、「百度百科」の『汴河怀古二首』項目にもあるように、皮日休の『汴河懷古二首』詩は組詩となっていて、其一詩と其二詩は、お互い補完関係にある。李益の『汴河曲』詩が極めて感情的、観念的に隋の煬帝、楊広を懐古しているのに対し、皮日休の『汴河懷古二首』詩のそれが、頗る理知的、論理的であるところが面白い。
○中国、杭州は、もともと余杭から起こった地名である。その余杭は、聖王禹が箱船に乗ってやって来たことに由来する地名である。つまり、余杭とは、禹の箱船の謂いである。越国は古代の聖王、禹の故地である。会稽(現在の紹興)には、今でも、聖王禹の御陵が存在する。
○同じように、楚国揚州は隋の煬帝、楊広の故地であると、皮日休の『汴河懷古二首』詩は詠う。汴河は只の運河では無い。天が隋の煬帝、楊広をして作らせたものだと言う。その大運河建設が隋の煬帝、楊広を滅ぼしたと世人は言って憚らないけれども、こんな未曾有の建設は常人の為せる業ではない。それこそ古代の聖王、禹に匹敵するような大変な業績だと評価する。
○間違いなく、皮日休の判断は正しい。現代に至って、ようやく、隋の煬帝、楊広の人物評価は見直されつつある。皮日休が九世紀に下した判断が二一世紀になって、何とか日の目を見ることとなった。詩人の眼力は何とも凄まじい。
○批判することは、何でも簡単である。しかし、何かを評価することはなかなか容易では無い。世人は何でも、無批判に批判することで自己を高められると錯覚し、自己満足している。本当は、何かを評価することで自己の昂揚はなされるのではないか。
○皮日休の『汴河懷古二首』詩は、私たちにそういうことを問うているような気がしてならない。