○前回、
邪馬台国にしたところで同じである。一介の遺跡や遺物から邪馬台国を類推することほど、無駄な
話は無い。まずは中国へ出掛け、中国から日本を眺めてみることだろう。中国から見る日本は、日本
で見る日本とはまた違うものがある。三世紀に陳寿が「三国志」『魏志倭人伝』で何を書こうとした
のか。「三国志」『魏志倭人伝』は中国で読まない限り、本当のものは見えて来ない。会稽も寧波も
知らない方に「三国志」『魏志倭人伝』を読むことは容易ではない。
そんな当たり前のことをしないで、邪馬台国を発見することなど、誰にも出来ない。それに邪馬台
国はすでにもう発見されている。今どき、邪馬台国が畿内だとか、北九州だとする説は通じない。陳
寿の「三国志」『魏志倭人伝』を読み解くと、邪馬台国が何処に存在したかは一目瞭然である。何故
なら、陳寿は「三国志」『魏志倭人伝』にきれいに倭国三十国を案内しているのだから。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
と案内したので、陳寿の倭国観について、ここでまとめて整理しておきたい。
○日本では、陳寿の「三国志」魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条を『魏志倭人伝』と呼び称しているから、『魏志倭人伝』と呼ぶことにするけれども、本当の書名はあくまで「三国志」になる。
○その『魏志倭人伝』の主題が何であるかを、ほとんどの方が問題としない。陳寿は『魏志倭人伝』を通じて何が言いたかったのか。それさえ問題にしない読書には、何処か問題が残ると言えよう。
○『魏志倭人伝』の主題が倭国三十国の案内であることは、『魏志倭人伝』を読んだ方なら、誰もが承知することである。それ以外に、『魏志倭人伝』の主題は考えられない。それなのに、これまで、倭国三十国をきれいに案内した人は誰も居ない。これは極めて不思議な話である。
○その倭国三十国を上記したように案内する本も、これまで見たことが無い。つまり、誰もが『魏志倭人伝』を読んだと言いながら、『魏志倭人伝』の主題さえ認識出来ていないのである。ある意味、『魏志倭人伝』を読むことは、それ程難しい。
○それもそのはずで、もともと、中国の史書は一般人を読者対象にしているわけではない。中国の、それも専門の史家だけを読者対象にしている。だから、『魏志倭人伝』は普通の人には読めない。相応の知識と訓練が無い限り、読むことは出来ない。それは当たり前のことに過ぎない。
○それがどれほど困難なことであるかは、次の宮崎市定の言葉が代弁してくれよう。
このように『史記』においては何よりも、本文の意味の解明を先立てなければならないが、これは
古典の場合已むを得ない。古典の解釈は多かれ少なかれ謎解きであって、正に著者との知恵比べであ
る。そしてこの謎解きに失敗すれば、すっかり著者に馬鹿にされて了って、本文はまっとうな意味を
伝えてくれないのである。 (「宮崎市定全集5 史記」自跋)
○碩学、宮崎市定が『魏志倭人伝』に言及しなかったのは、ある意味、有名な話である。宮崎市定ほどの中国通が『魏志倭人伝』を読むことを躊躇した。それ程、『魏志倭人伝』を読み解くことは難しい。
○もちろん、宮崎市定が『魏志倭人伝』を読んでいることは間違いない。読んだ結果、宮崎市定は『魏志倭人伝』を読み解くことを諦めた。それ程の時間と労力を要するのが『魏志倭人伝』を読むと言う作業なのである。
○長い前置きとなってしまったが、これが『魏志倭人伝』を読むことの難しさである。その『魏志倭人伝』を読み解くと、陳寿は魏国の帯方郡から邪馬台国までの道程を、次のように案内する。
【帯方郡から邪馬台国への道のり】
・帯方郡→狗邪韓国 七千余里
・狗邪韓国→対馬国 千余里
・対馬国→壱岐国 千余里
・壱岐国→末廬国 千余里
・末廬国→伊都国 五百里
・伊都国→ 奴国 百里
・ 奴国→不弥国 百里
・不弥国→投馬国 千五百余里
・投馬国→邪馬台国 八百余里
・末廬国→邪馬台国 二千余里
○また、倭国三十国を次のように案内してみせる。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
○これが陳寿の実力なのである。この陳寿の表現力に恐れ入ることを知らない人は、「三国志」を読むに値しない人である。「三国志」の編者、陳寿の実力が遺憾なく発揮されているのが「三国志」魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条だと言うしかない。
○「三国志」魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝は、「三国志」の中で唯一の外国伝となっている。そして、中国で初めて倭国を詳細に案内しているものでもある。それは「三国志」魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝の冒頭を飾っている次の文を読んでいただければ、誰もが了解することである。
【『烏丸鮮卑東夷傳』の序文】
書載「蠻夷猾夏」、詩稱「玁狁孔熾」、久矣其為中國患也。秦、漢以來、匈奴久為邊害。孝武雖外
事四夷、東平兩越、朝鮮、西討貳師、大宛、開邛苲、夜郎之道。然皆在荒服之外、不能為中國輕重。
而匈奴最逼於諸夏、胡騎南侵則三邊受敵、是以屢遣衛、霍之將、深入北伐、窮追單于、奪其饒衍之地。
後遂保塞稱籓、世以衰弱。建安中、呼廚泉南單于入朝、遂留內侍、使右賢王撫其國、而匈奴折節、過
於漢舊。然烏丸、鮮卑稍更強盛、亦因漢末之亂、中國多事、不遑外討、故得擅(漢)南之地、寇暴城
邑、殺略人民、北邊仍受其困。會袁紹兼河北、乃撫有三郡烏丸、寵其名王而收其精騎。其後尚、熙又
逃於蹋頓。蹋頓又驍武、邊長老皆比之冒頓、恃其阻遠、敢受亡命、以雄百蠻。太祖潛師北伐、出其不
意、一戰而定之、夷狄懾服、威振朔土。遂引烏丸之眾服從征討、而邊民得用安息。後鮮卑大人軻比能
複製禦群狄、盡收匈奴故地、自雲中、五原以東抵遼水、皆為鮮卑庭。數犯塞寇邊、幽、並苦之。田豫
有馬城之圍、畢軌有陘北之敗。青龍中、帝乃聽王雄、遣劍客刺之。然後種落離散、互相侵伐、強者遠
遁、弱者請服。由是邊陲差安、(漢)南少事、雖時頗鈔盜、不能複相扇動矣。烏丸、鮮卑即古所謂東
胡也。其習俗、前事、撰漢記者已錄而載之矣。故但舉漢末魏初以來、以備四夷之變雲。
(総字数は440字。)
○これほどの意気込みと気概とを以て書かれたのが、「三国志」魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝であることを理解して欲しい。その「三国志」魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝には、更に序文がある。
【『東夷傳』の序文】
書稱「東漸於海、西被於流沙。」其九服之制、可得而言也。然荒域之外、重譯而至、非足跡車軌所
及、未有知其國俗殊方者也。自虞暨周、西戎有白環之獻、東夷有肅慎之貢、皆曠世而至、其遐遠也如
此。及漢氏遣張騫使西域、窮河源、經歷諸國、遂置都護以總領之、然後西域之事具存。故史官得詳載
焉。魏興、西域雖不能盡至、其大國龜茲、于、康居、烏孫、疏勒、月氏、鄯善、車師之屬、無歲不
奉朝貢、略如漢氏故事。而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子為其絕域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不
得通於諸夏。景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪、帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。
其後高句麗背叛、又遣偏師致討、窮追極遠、逾烏丸、骨都、過沃沮、踐肅慎之庭、東臨大海。長老說
有異面之人、近日之所出。遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號。可得詳紀。雖夷狄之邦、而
俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。
(総字数は、330字。)
○何とも壮大な構想のもとに「三国志」魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝が書かれていることに驚く。その「三国志」魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝の中心部分になるのが『魏志倭人伝』なのである。誰もそういうふうに『魏志倭人伝』を読まない。
○私は陳寿の実力を知っているから、恐れおののく。しかし、日本の史家や考古学者先生は『魏志倭人伝』を軽視、無視して止まない。陳寿が何を考えて『魏志倭人伝』をものしたか。そういうことも考えて読まないと『魏志倭人伝』は読めない。
○これまで五回寧波を訪れ、会稽にも三回訪問した。全て『魏志倭人伝』を読むが為である。そういう努力を惜しまない限り、『魏志倭人伝』は読むことは出来ない。陳寿は恐ろしい男である。『魏志倭人伝』を読めば読むほど、しみじみ陳寿と言う史家の偉大さを痛感させられる。それが「三国志」の編者、陳寿の実力である。天晴れ、陳寿と言うしかないのが「三国志」であり、『魏志倭人伝』なのである。