○卑弥呼の肖像を描くのに必要なのは、何と言っても、「魏志倭人伝」の中に記録されている倭國女王卑彌呼の姿であろう。その全てを羅列すると、以下のようになるのではないか。
・東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。
・南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。
・自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
・其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
・自郡至女王國萬二千餘里。
・自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。
・王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
・其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子為王。名曰卑彌呼。
事鬼道、能惑眾。年已長大、無夫婿。有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。
以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
・其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑彌呼。
・又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、
真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到錄受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、
故鄭重賜汝好物也。
・倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊狀。
・卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步、徇葬者奴婢百餘人。
・復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。
○陳寿の「魏志倭人伝」1984字では、倭國女王卑彌呼の名は、容易に出現しない。卑弥呼の名が出て来るのは、冒頭から1241字目の、
・乃共立一女子為王。名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫婿。
有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
が最初である。その後も、卑弥呼の名が記録されているのは、次の4箇所に過ぎない。
・制詔親魏倭王卑彌呼。
・倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、
・卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步、徇葬者奴婢百餘人。
・復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。
○この中で、卑弥呼の肖像を描くのに役立つと思われるのは、
・乃共立一女子為王。名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫婿。
有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
くらいのもので、これでは、卑弥呼の肖像を描くこと自体がなかなか容易では無い。
○結果、誰もが注目するのが、『事鬼道、能惑衆』の文言である。「鬼道を事とし、能く衆を惑はす」のであれば、それはシャーマニズムだと勝手に解釈し、日本では、すっかりシャーマン姿の卑弥呼像が出来上がってしまっている。それが日本での卑弥呼像となっている。
●中国会稽へ出掛けると、会稽が道教の聖地であることを知る。同様に、会稽は仏教の聖地でもある。古い時代、中国では、道教と仏教は完全に融合していることが判る。これまで、廬山や南岳衡山などを訪れ、実際登って来て、そのことは確認済みである。
●例えば、王羲之(303~361)は、中国でも日本でも「書聖」としての評価が高い。しかし、彼の不朽の名作「蘭亭集序」を読むと判ることだが、王羲之は単なる書家ではない。王羲之の本領は道家にある。王羲之の時代、会稽は道教仏教の聖地として頓に知られていた。もちろん、それは三世紀からそうであったと思われる。
●王羲之は、いくら書聖と崇められたところで、少しも喜ばないに違いない。それは誰もが「蘭亭集序」の書を評価するだけで、彼の思想を評価してくれないからである。詳しくは、以下のブログを参照されたい。
・書庫「舜禹之都:紹興・上虞」:ブログ『王羲之:蘭亭序』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37340124.html
●王羲之は、そういう会稽に憧れ、会稽に蘭亭を建て、会稽に骨を埋めた。王羲之の第七子の王献之の邸宅を寺に改装したのが若耶溪の雲門寺である。「蘭亭集序」を収蔵していた寺として知られる。雲門寺参拝については、以下を参照されたい。
・書庫「天上仙都:紹興」:ブログ『紹興:雲門寺』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37770743.html
・書庫「天上仙都:紹興」:ブログ『紹興:雲門寺参拝』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37774045.html
●会稽は越国の都である。その会稽から100劼曚錨譴現在の寧波である。嘗ては明と呼ばれていた。その寧波(明)の東側が東明に該当する。具体的に言うと、舟山群島と言う。舟山群島は寧波から150劼曚鼻東に存在する。つまり、「魏志倭人伝」が、
・計其道里、當在會稽、東冶之東。
と表記しているところの『東冶』は、明らかに誤記か誤字だとするしかない。『東冶』では何の意味も成さないからである。『東明』であれば、現在に至る、連綿とした中国と日本との交易港であることが確認される。
●その舟山群島の中心が普陀山であることも間違いない。普陀山は13km²の小さな島である。中国では観音信仰の聖地として知られる。「魏志倭人伝」の『會稽東冶』と言う表現が意味する場所が舟山群島の普陀山である。
●舟山群島の普陀山を訪れると、『卑弥呼の鬼道』が何を意味するかも、自然と理解される。それは磐座崇拝であり、太陽崇拝である。私が、
・2012年3月12日
・2012年7月18日
・2012年11月10日
・2013年3月17日
・2013年10月12日
と五回も普陀山を訪れている理由も、もちろん、『卑弥呼の鬼道』が何であるかを理解することにあった。
●最近、岩波新書「出雲と大和」(2013年1月刊・村井康彦著)が発刊され、興味深く読ませていただいた。村井康彦は「出雲と大和」の中で、出雲神が磐座崇拝であることを看破している。このことについては、全く同意見である。
●ただ、村井康彦が邪馬台国が大和国としていることについては、同調出来ない。村井康彦は日本海ルートを提案するが、それはまるで「魏志倭人伝」が読めていないからに過ぎない。それに、村井康彦は出雲神が出雲国のものであると誤解している。出雲神の故郷は出雲国では無いことが理解されていない。
●更に、村井康彦が出雲神の性格についても言及していないことも気になる。出雲神は神仏混淆の神であった。その起源を辿れば、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島に辿り着く。
◎邪馬台国三山を見ると、邪馬台国は旧薩摩国だと言うしかない。その邪馬台国を治めていた卑弥呼の肖像を描くとすれば、法衣姿の卑弥呼像となることは明らかである。三世紀に、既に日本へは仏教が伝来していた。三世紀、中国でも最新の宗教であった仏教を卑弥呼がすでに採用していたことは、中国浙江省舟山群島の普陀山を訪れて見ると、了解される。
◎村井康彦は出雲神の本質は磐座崇拝であると説く。その出雲神の原型が中国浙江省舟山群島の普陀山にそっくりそのまま存在する。普陀山は、現在、観音信仰の聖地だが、もともとは辯才天信仰ではなかったかと思われる。
◎それは日本三大辯才天と称される、安芸国の宮島・大願寺や、近江国の竹生島・宝厳寺、竹生島神社や、大和国の天川村・天河大弁財天社、相模国の江ノ島・江島神社などを訪れてみると了解される。もともと、全て神仏混淆の仏様であり神様である。
◎卑弥呼の肖像を知りたいと思うならば、まず、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島へ出掛けてみることだろう。ここが出雲神の故郷であり、辯才天信仰の故郷であることを理解する。
◎更に、その信仰が何処から勧請されているかを知るには、鹿児島県鹿児島郡十島村宝島へ出掛ける必要がある。鹿児島県鹿児島郡十島村宝島から眺める景色と、中国浙江省舟山群島普陀山から眺める景色は、まるで同じものであることを知る。百聞は一見に如かず、上の写真をご覧あれ。
◎卑弥呼はシャーマンであるとの見解は、まるで根拠の無い話である。第一、三世紀の日本は、すでに国際社会の只中にあった。そんな時代を乗り切るのに、シャーマニズムが役立つはずも無い。
◎中国浙江省舟山群島の普陀山へ赴くと、卑弥呼の肖像が見える。しかし、そこに至るまでの遙かな推考と検証が必要であることも確かである。卑弥呼の肖像を描くのは簡単では無い。