○神様にも流行り廃りがあると言うと、怒られるかも知れない。現在の一宮は11世紀から12世紀頃の成立とされるから、その成立時期は随分遅い。しかし、諸国の神々を考える上で、一宮は参考になる。
○もっとも、国に拠り、時代に拠り、各国の一宮成立事情は様々であって、各国の一宮をまとめて一括りに考えることは危険である。ここでは、薩摩国一宮を考えてみたい。
○諸本に拠れば、薩摩国一宮は新田神社と枚聞神社が並記されている。ただ、いずれの書物も本来の薩摩国一宮は枚聞神社であることを明記している。それが島津氏の時代になって新田神社へと変更されたものとしている。
○此処で扱うのは、古代の話であるから、薩摩国一宮が枚聞神社であった時代の話になる。もともと律令制度の中で、国司が新任した際、国を代表する神社を最初に参詣する習わしがあり、それが一宮制の始まりとされる。
○ただ、薩摩国や大隅国、日向国の国府が、必ずしもその国の中心部に存在したわけではないことにも、十分留意する必要がある。国府開設当時、薩摩国国府のあった薩摩川内市は辺境の地でしかなかった。あくまで、薩摩国の中心は薩摩半島南部であった。そういうことが薩摩国一宮問題の根底にあることを見逃してはなるまい。
○現在の鹿児島市で、神社と言えば、照國神社や南洲神社を思い浮かべる方が多いのではないか。以前、宇治瀬神社へお参りしようと思い、鹿児島を訪れた際にも、近くに立派な護国神社があって、間違ってそちらへ向かってしまった。親切な護国神社の巫女さんに、丁寧に宇治瀬神社の鎮座地をお伺いした記憶がある。宇治瀬神社は鹿児島工業高校裏手に、慎ましく鎮座坐した。
・書庫「鹿児島はなぜ鹿児島と言う?」:ブログ『鹿児島はなぜ鹿児島と言う? 』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/1643950.html
○嘗て、鹿児島三社と言えば、一之宮大明神、二之宮宇治瀬、三之宮川上天満宮と決まっていた時代もあったのに、時代の趨勢とはこういうものなのだろう。宇治瀬神社は慎ましく草牟田の地に鎮座坐した。
○鹿児島三社が何を斎き祀る社であるかも、現在ではすっかり失われてしまっているような気がしてならない。鹿児島市内を流れる三つの河川は、北から稲荷川・甲突川・田上川となっている。その稲荷川の神が川上天満宮、甲突川の神が宇治瀬神、田上川の神が御代神一之宮神社なのではないか。
○薩摩国一宮の枚聞神社は、すでに江戸時代にその御祭神や御神体を見失っているようが気がしてならない。そのことは寛政7年(1785年)の白尾国柱著「麑藩名勝考」や、天保十四年(1843年)刊行の「三国名勝図会」、明治四年(1871年)刊行の「薩隅日地理纂考」等で確認出来る。
・書庫「指宿探訪」:ブログ『枚聞神社のご祭神』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/30820099.html
・書庫「指宿探訪」:ブログ『「三国名勝図会」の載せる枚聞神』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/30831622.html
・書庫「指宿探訪」:ブログ『明治初年の枚聞神社御祭神』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/30856750.html
・書庫「指宿探訪」:ブログ『開聞岳の噴火』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/30866816.html
○これまで何度も薩摩国一宮の枚聞神社には参拝しているし、今年も正月16日に参詣したばかりである。
・書庫「邪馬台国三山」:ブログ『2015年:開聞岳登山』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39374408.html
○そういう過去のブログに、薩摩国一宮の枚聞神社が斎き祀る神についてはすでに言及済みである。
・書庫「指宿探訪」:ブログ『薩摩国一之宮(枚聞神社)参拝記』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/7838166.html
・書庫「指宿探訪」:ブログ『薩摩国一宮枚聞神社参拝』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/30814897.html
○現在、薩摩国一宮の枚聞神社では境内にある由緒記で、御祭神を、
ご祭神 枚聞神一座 神社由緒記に大日孁貴命(天照大御神)を正祀とし、
他に皇祖神を併せ祀るととある。
と載せるけれども、枚聞神社の御神体が開聞岳である以上、枚聞神社の御祭神は『枚聞神一座』とするしかない。大日孁貴命(天照大御神)であっては、神様が別物になってしまう。
○薩摩国一宮の枚聞神社の所在する所が枚聞神社の御神体をはっきり案内している。そのことを抜きに枚聞神社は語れない。もともと『枚聞神一座』は山神なのである。
○加えて、『枚聞神一座』が海神であることにも留意する必要があろう。枚聞神社は陸上から遙拝することになるけれども、枚聞神は、本来、海から遙拝するものなのである。それが『ひらききのみみなしやま』の実態なのではないか。
○敢えて、「古事記」「日本書紀」の神々に枚聞神を列するなら、枚聞神は大日孁貴命(天照大御神)では無く、大山祇神とするしかない。それに、枚聞神は出雲神でもある。何故なら、現在でも大和国を領知しているのは大日孁貴命(天照大御神)では無く、出雲神だからである。
○出雲神の故郷が邪馬台国であることを了解しない限り、日本の神々は説明出来ない。奈良県の大和国を歩けば、大和国一宮大神神社を始め、至る所に出雲神が鎮座まします。その出雲神の故郷が出雲国で無いことが話を複雑にしている。
○出雲神の故郷が何処であるかについては、2010年頃、すでに以下のブログに書いている。
・書庫「硫黄島」:ブログ『八雲立つ出雲』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/33764795.html
○『八雲立つ出雲』である以上、硫黄島が出雲神の故郷とするしかない。同じように、大山祇神を追い掛けると、硫黄島に到達する。これは決して偶然ではない。日本の多くの神々は硫黄島に出現していることを知る。
○薩摩半島が邪馬台国であり、そこに聳えるのが邪馬台国三山である。その邪馬台国に斎き祀られている神が出雲神であることは興味深い。奈良県の大和国に鎮座坐す神が出雲神であると言うのは、そういうことに起因する。
○「万葉集」の編纂された時代に、すでに耳成山はほとんど歴史に埋没した存在であった。だから「万葉集」では耳成山は何とも影の薄い存在である。しかし、嘗て、耳成山に栄光の時代が存在したことも事実である。次回は、そういう話をしたい。