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邪馬台国三山と大和三山

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○書庫「邪馬台国三山」と題して、これまで50個ものブログを書いて来ている。「三国志」の編者、陳寿にしたがって「魏志倭人伝」を読むと、邪馬台国が南九州に存在していたことが判る。その邪馬台国を代表する風景が邪馬台国三山なのである。

○邪馬台国三山とは、次の山を指す。
  ・霧島山(1700叩
  ・桜島山(1117叩
  ・開聞岳(924叩

○同じように、大和国である奈良県橿原市には大和三山が存在する。
  ・畝傍山(199.2m)
  ・香具山(152.4m)
  ・耳成山(139.7m)

○畝傍山の名を奈良県橿原市で説明することは誰にも出来ない。同じように、香具山や耳成山の名も奈良県で説明することは不可能である。つまり、大和三山と称される山は、何故か奈良県では説明不可能な山なのである。

○同様に、大和地名そのものが奈良県で説明出来ない。つまり、大和地名や大和三山の名は、もともと奈良県のものではなく、何処か他所から移入された地名だと考えられる。と言うか、そう考えない限り、大和地名や大和三山の名は説明不可能なのである。

○それでは大和地名や大和三山の名は、実際、何処から移入されたか。そのヒントとなるのが神武天皇の東征神話である。日本最古の歴史書とされる「古事記」と「日本書紀」とが、ともにそういう神武天皇の東征神話を記録している。仮に大和地名や大和三山の名が何処か他所から移入されたのであれば、それは移民に拠ってもたらされたと考えるのが普通である。

○神武天皇は日向国から移って来たとされる。その日向国は広い。薩摩国と大隅国と日向国を併せたのが旧日向国であるから、現在で言えば、おおよそ鹿児島県と宮崎県全体を指す範囲である。それでは神武天皇は具体的に日向国の何処から移って行ったのであろうか。

○それは神武天皇の祖先が何処に在住していたかを知るほか無い。神武天皇の祖先について、「古事記」「日本書紀」は神代三代として記録している。その御陵が神代三山陵である。つまり、神武天皇は神代三山陵の所在地から船出したと考えるのが自然だろう。

○もっとも、神代三山陵の所在地は明治時代に比定された限り、まるっきり放置されたままとなっている。その明治時代の比定地にしたところで、根拠の無い無責任な比定地となっている。神代三山陵の第一人者、白尾國柱の「麑藩名勝考」にしたがって神代三山陵の研究を継続したのが、本ブログ「神代三山陵の研究」である。
  ・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1

○結果、真実の神代三山陵は、次のように案内される。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○つまり、真実の神代三山陵は全て大隅国に存在することが判る。この地は嘗て救仁郷と称されたところから陳寿の「三国志」が伝える狗奴国に該当すると推測される。神武天皇は狗奴国の人であった。

○それでは邪馬台国三山の存在するところと神武天皇とは別個の存在となってしまう。全く矛盾する話である。しかし、それでも南九州から大和地名や大和三山の名が奈良県へ移入されたことは間違いない。

○その矛盾を理解する為には、宗教を問題にする必要が出て来る。奈良県の大和国一宮は大神神社と申し上げ、桜井市三輪山に鎮座まします。御祭神は、大物主大神で、出雲神である。

○大和朝廷は神武天皇に拠って大和国に建国したとされるが、神武天皇の出身地は何故か狗奴国なのである。それなのに大和国を領知しているのは出雲神の大物主大神となっている。国名も大和国であって、これは明らかに邪馬台国の名を継承したものだろう。

○大和国一宮である大神神社から眺める大和三山は美しい。前回案内したように、大神神社から望む大和三山の景色と全く同じ景色が鹿児島県に存在する。それは硫黄島から望む開聞岳・桜島山・霧島山の風景である。

●このことから判るように、奈良県に存在する大和三山は、あれは邪馬台国三山のレプリカなのである。大和国を代表する大和三山、
  ・畝傍山(199.2m)
  ・香具山(152.4m)
  ・耳成山(139.7m)
が標高200辰砲盻爾燭覆ぞ山であるはずが無かろう。本物の大和三山は、
  ・畝傍山=霧島山(1700叩
  ・香具山=桜島山(1117叩
  ・耳成山=開聞岳(924叩
であって、実に堂々とした名山ばかりである。そのことは実際鹿児島県へ出掛けてみれば判ることである。

●これは決して単なる想像や空想では無い。大和国で畝傍山が何故『うねびやま』と称されるか。そのことは誰にも証明出来ない。それが南九州ではきれいに説明出来る。本物の「畝傍山=霧島山(1700叩法廚蓮日本中の何処の山より「うねって」存在している。

●同じように、大和国で香具山の名を説明することは誰にも出来ない。ところが南九州ではそれがきれいに説明出来る。香具山の名は「火の山」の謂いである。香具山=桜島山(1117叩砲蓮∈でも毎日噴火し続けている山なのだから。

●それに、香具山は「天の香具山」と称される。「天の」の冠称を大和国で説明することは誰にも出来ない。「天の」の冠称の意味は、それが海に浮かぶ島であることを意味する。大和三山の中で、唯一島であるのは「香具山=桜島山(1117叩法廚世韻任△襦

●もっと言うと、香具山には特別の表現が存在する。それが「天降付く天の香具山」と言う枕詞である。枕詞「天降付く」は「天の香具山」にだけ掛かる特別のものである。それが何を意味するかは南九州でなくては説明出来ない。以下のブログで詳しく証明しているので参照されたい。
  ・書庫「竹島・硫黄島・黒島」:ブログ『枕詞「天降り付く」の真実』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37290249.html

●大和三山の中で、もっとも珍妙な名は耳成山であろう。「みみなしやま」の意味するところを探るのは尋常では出来ない。その契機となったのも、実は枕詞である。

●鹿児島県指宿市開聞町十町に枚聞神社が鎮座まします。枚聞神社は「ひらききじんじゃ」と申し上げる。この神社が存在しなかったら、多分、「みみなしやま」の意味するところを理解することは不可能だったろう。枚聞神社は薩摩国一宮である。

●枚聞神社の拝殿の先には開聞岳が遙拝出来る。つまり、枚聞神社は開聞岳の真北に存在する社であって、枚聞神社が開聞岳を御神体とする神社であることは、誰が見ても了解されることである。現在、「開聞岳」と表記されるけれども、もともと「枚聞岳」であったことが枚聞神社の名から推測出来る。それなら「ひらききのみみなしやま」は十分成り立つ。

●どういうことかと言うと、もともと「みみなしやま」の名が存在した。意味は「境界の山」の謂いである。ここまでが陸地であって、ここから先が海であることを意味する。そういう陸地と海洋との境に屹立する山が「みみなしやま」である。

●それに冠称を付けたのが「ひらききのみみなしやま」と言う表現である。もちろん、「ひらききの」は枕詞である。どんな願い事でも聞き遂げてくれる神が「ひらききのみみなしやま」の神と言うことである。何とも見事な表現と言うしかない。

●もちろん、これには実証もある。鹿児島県枕崎市に「耳取峠」と言う摩訶不思議な名の峠が存在する。
現地を訪れると、
      耳取峠
   耳取峠の地名は、この地で罪人の耳を切り取っていたという説と、
  この峠に来た人々が眼下にひろがる眺望のすばらしさに見ほれ、
  立ちつくしたことから、見ほれが訛って、耳取りになったという説が
  あります。明治の歌人高崎正風は、「玉敷の都あたりに移しなば
  世にふたつとなきところならまし」と詠い、ここを絶賛しています。
                    鹿児島県
と言う、何とも珍妙な案内板が設置されている。実際、耳取峠から見える景色が耳取峠の名の由来であることは言うまでも無かろう。

●耳取峠の名が開聞岳に由来することは間違いない。耳取峠からの開聞岳は実に美しい。まさに『玉敷の都あたりに移しなば世にふたつとなきところならまし』風景を目にすることが出来る。つまり、耳取峠とは「ひらききのみみなしやま」を遙拝するに相応しい場所の謂いなのである。「みみなしやまを見取り、見惚れる」峠が耳取峠となったと思われる。詳しくは以下を参照されたい。
  ・書庫「枕崎探訪」:ブログ『耳取峠』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35992913.html

◎大和三山は、2005年7月14日に、文化庁の「国指定文化財等:史跡名勝天然記念物:大和三山:香具山・畝傍山・耳成山」に指定されている。文部科学省文化庁もそういう暇があったら、大和三山がどういう山であるかを考える方が遙かに益があるのではないか。このことについても以下に書いているので参照していただくしかない。
  ・書庫「邪馬台国三山」:ブログ『史跡名勝天然記念物:大和三山:香具山・畝傍山・耳成山』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39393214.html

◎万葉学者先生は「大和三山:香具山・畝傍山・耳成山」が男山か女山であるかを研究するのに忙しい。そんなことはどうでも良いことである。それより、大和三山がどういう山であるかを規定する方が遙かに大事ではないか。

◎大和三山を追い求めると、邪馬台国三山へ達する。そこが陳寿の言う邪馬台国である。つまり、大和国名は邪馬台国から勧請された地名であることが判る。それなのに、歴史学者先生や考古学者先生は、邪馬台国が畿内だとか北九州だと放言して譲らない。

◎「文化は孤ならず」。「三国志」が邪馬台国は薩摩国だと指示し、「古事記」や「日本書紀」が日本創世の地は、南九州だと記録している。加えて「万葉集」までもがそれを支持する。それでも邪馬台国は畿内だとか北九州だと発言なさるのであれば、それはもう妄想と言うしかない。

◎邪馬台国も卑弥呼も「三国志」に書かれた史実であることを忘れてはなるまい。その「三国志」から導き出されない邪馬台国も卑弥呼も、全ては虚妄の説と言うしかない。

◎是非、南九州へお出掛けを。霧島山へ登り、開聞岳へ登り、桜島山を望見すれば、ここが邪馬台国であることが実感出来ます。

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