○前回に引き続き、今回は宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の第3回を検証する。2015年2月16日(月)に掲載された。
○見出しには、第1回が『古墳密集地帯』で、第2回が『古墳のルール』とあり、第3回は『男狭穂塚・女狭穂塚』となっている。つまり、第1回で国の特別史跡「西都原古墳群」を案内し、第2回で「西都原古墳群」の成り立ちを案内し、第3回で「西都原古墳群」の中でもっとも大きい『男狭穂塚・女狭穂塚』を案内しようとするわけである。
○国の特別史跡「西都原古墳群」が存在するのは、一ツ瀬川が九州山地から流れ出た場所の右岸の台地上になる。この辺り一帯は標高100辰曚匹梁翆呂魏論遒削って流れている。一ツ瀬川が九州山地から流れ出た場所が杉安で、杉安から3劼曚鋲遒吠翹未あり、その穂北の西側辺りから「西都原古墳群」は4劼曚鋲酲未墨続して存在する。
○西都市市街は一ツ瀬川の右岸段丘上に存在する。左岸はほとんど切り立った崖を形成している。広いところで2劼曚匹良涼糞屬杉安から瀬口、黒生野まで10劼曚病海。それが西都市の中心部である。瀬口から先はグッと平野が広がっている。
○西都原古墳群のうち、もっとも初期に成立したとされる1号墳を盟主とする古墳群は台地の東縁南部に位置し、81号墳を盟主とする古墳群は台地の東縁北部に位置する。現在は樹木が生い茂り眺望することは出来ないけれども、古墳が形成された当時には、これらの古墳は西都市市街から望むことが出来たと思われる。
○だから、初期の古墳は集落に隣接した高台に築かれていることが判る。「万葉集」巻十四、『東歌』に、以下の和歌があり、鎌倉を歌ったものとされる。
薪樵る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ(譬喩歌:3433)
多伎木許流 可麻久良夜麻能 許太流木乎 麻都等奈我伊波婆 古非都追夜安良牟
○そういう意味では、西都原古墳群はまさに『薪樵る鎌倉山』であったと理解されよう。また日常的に『薪樵る』ことに拠って、『鎌倉山』は保全されたとも言えよう。
●「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、『男狭穂塚・女狭穂塚』について、次のように案内する。
女狭穂塚の墳形は大阪府の古市古墳群に位置する仲津山古墳(墳長290叩藤井寺市)と多くの
特徴が一致すると、研究者は指摘する。女狭穂塚は仲津山の約60%の大きさ。想定されるのは、仲
津山をモデルにした「設計図」によって、女狭穂塚が造られた可能性だ。仲津山古墳は応神天皇皇后
で仁徳天皇の母・仲姫命の陵と宮内庁が指定しており、周堤で見つかった埴輪から5世紀前半の築造
時期があてられている。(中略)
一方の男狭穂塚については、「前方部が短い」とのくくりでは、似た古墳は乙女山古墳(奈良県河
合町)や女良塚古墳(三重県名張市)など全国にある。ただし、それらの古墳を「帆立貝形」という
一つのスタイルとするか、円墳に祭壇の造出が付設されたと見るか、研究者の間でも完全には整理さ
れていない。いずれの形としても男狭穂塚は全国一の大きさになり、男狭穂塚が他の古墳のモデルだ
ったことも考えられるという。
●国の特別史跡「西都原古墳群」内で、『男狭穂塚・女狭穂塚』が特別の存在であることは疑いないところである。ただ、正確には、『男狭穂塚・女狭穂塚』は国の特別史跡「西都原古墳群」には含まれていない。『男狭穂塚・女狭穂塚』は宮内庁の管轄で、国の特別史跡「西都原古墳群」からは除外されている。
●『男狭穂塚・女狭穂塚』について、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は次のように詳しく説明する。
それによると、女狭穂塚は墳長176辰料以絮瀛。前方部が後円部を上回るほどに大きくなり、
前方部と後円部の両付け根部分に「造出」と呼ばれる四角形の空間を設ける。5世紀前半代の前方後
円墳の代表例という。男狭穂塚は前方部が極端に短い帆立貝形古墳で、前方部の先端に後世の盛り土
がつながっている可能性があるため墳長の確定が難しく、現時点では女狭穂塚と同じ176辰箸垢襦
女狭穂塚と同時期に造られたとみられている。
●古墳の詳しい内容については、専門では無いからよく判らない。ただ、古墳は全国規模での調査が進んでいて、各地の古墳との関連性が指摘される。そういうところから、「西都原古墳群」や『男狭穂塚・女狭穂塚』がどういう性格の古墳であるかを知ることが出来る。
●宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」では、第3回の『男狭穂塚・女狭穂塚』に引き続き、第4回でそういう話をしている。「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、なかなか勉強になる。