検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)③」
○前回に引き続き、今回は宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の第3回を検証する。2015年2月16日(月)に掲載された。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)④」
○今回案内するのは、2015年2月19日(木)に掲載された宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の第4回である。見出しには『卓越した力』とある。 ○第3回の見出しが『男狭穂塚・女狭穂塚』であった。第3回は、その『男狭穂塚・女狭穂塚』がどのような古墳であるかを詳細に案内し、第4回では『男狭穂塚・女狭穂塚』を造成した権力者がどのような人物であったかを探ろうとする。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑤」
○昨日、検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)ぁ廚如∪湘垳狂妬群を考える際、古墳の規模だけで古墳を考えることの危うさを指摘したところ、今日3月16日付の宮崎日日新聞に第11回「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が掲載されていて、「筑紫の王(上)」の見出しで、八女古墳群の記事が載っていて驚いた。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑥」
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」では、第3回の見出しが『男狭穂塚・女狭穂塚』、第4回が『卓越した力』で、『男狭穂塚・女狭穂塚』を案内した後、第5回の見出しは『最古の史書』となっていて、日本最古の史書である「古事記」「日本書紀」に『男狭穂塚・女狭穂塚』の埋葬者を見出そうとするものだ。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑦」
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)А廚掲載されたのは、2015年3月2日(月)のことであった。見出しには『景行の西征』とある。まるで神武天皇の東征を髣髴とさせる表現である。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑧」
○前回、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)А廚蓮◆崙椽餤」景行天皇紀が記録する景行天皇の九州征討の話であった。そこに記録されている景行天皇作歌とされる、 倭は 国のまほらま 畳づく 青垣山 籠もれる 倭し麗し は名歌であり、名高い。ただ、それは倭建命の絶唱、 倭は 国のまほろば 畳づく 青垣山 籠もれる 倭し麗し として広く喧伝されていることではあるけれども。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑨」
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年3月9日(月)に掲載された。見出しには『大豪族・葛城氏(上)』とある。また、小見出しには、 ヤマトの中枢に君臨 皇位継承「本流」を独占 とあった。 ○葛城氏がどういう氏族であるかについて、記事では最初に詳しく説明している。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑩」
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年3月12日(木)に掲載された。見出しには『大豪族・葛城氏(下)』とある。また、小見出しには、 半島の先進文化吸収 諸県君と同時期に台頭 とある。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑪」
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年3月16日(月)に掲載された。見出しには『筑紫の王(上)』とある。また、小見出しには、 異彩放つ「石人」表飾 海路要衝押さえ力増す とある。 ○その冒頭に、筑紫の君磐井について、詳しい説明を載せている。 4世紀から5世紀代にかけて権力基盤を整えつつあった天皇(大王)家や側近の豪族と、親密な関...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑫」
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年3月19日(木)に掲載された。見出しには『筑紫の王(下)』とある。また、小見出しには、 半島政策 大王と対立 諸県君と並ぶリーダー とある。...
View Article諸県とは何か
○前回、「諸県地域」と題して、明治4年(1871年)刊行の「薩隅日地理纂考」が案内する諸県を中心に話した。「薩隅日地理纂考」はその冒頭に、 一郡の所管二十一郷六十四村周廻九十五里七町十五間なり。 と案内しているけれども、実際、「薩隅日地理纂考」記事中に見られる郷数は20郷であり、村数は134村を数える。何とも不正確な話ではあるけれども、「薩隅日地理纂考」には多々誤記や遺漏などがあるように思える。...
View Article諸県君の信仰
○寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」の著者は白尾國柱である。その序文にあるように、白尾國柱の本来の目的は、神代三山陵の追求にある。白尾國柱の神代三山陵の研究を引き継いだのが、本ブログ、書庫「神代三山陵の研究」である。 ・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l...
View Article諸県のシンボル
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が古代ヒムカの西都原の長(オサ)を追求しながら、諸県君を追跡しているのが気になって仕方が無い。 ○その後、宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年3月23日(月)に「悲劇の皇(上)」、3月26日(木)に「悲劇の皇(下)」と続け、相変わらず諸県君牛諸井とその子である髪長媛の子孫を追い続けている。...
View Article諸県君と日向国造
○「古事記」景行天皇記には、次のように載せる。 大帯日子淤斯呂和気天皇、纒向の日代宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、吉備臣等 の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生みませる御子、櫛角別王。次に 大碓命。次に小碓命、亦の名は倭男具那。次に倭根子。次に神櫛王。(中略) 又日向の美波迦斯毘賣を娶して、生みませる御子、豊国別王。(中略)...
View Article諸県君と日向国
○日向国が歴史に登場することは、日向神話以後、ほとんど無い。そのことについて、博覧強記の白尾國柱は、「麑藩名勝考」巻之八の冒頭で、「日向国」と題して詳しく述べている。 ○景行天皇紀十七年三月、天皇幸子湯県、遊于丹裳小野、時東望謂左右曰、是、国直向於日出方、 故号其国曰日向也。 ○日向国風土記曰、日向国首坎尾離、北隣豊後、南接大隅、西連肥後、東限大海。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑬」
○諸県及び、諸県君について、本ブログではこれまで、 ・諸県地域 ・諸県とは何か ・諸県君の信仰 ・諸県のシンボル ・諸県君と日向国造 ・諸県君と日向国 と述べて来た。ただ、諸県君については、史料があまりに少なく、諸県君を定義することは容易なことではない。...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑭」
○前回に引き続き、今回は「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」第14回について触れてみたい。「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」第14回は3月26日(木)、宮崎日日新聞に掲載された。 ○「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」第14回の見出しには『悲劇の皇族(下)』とあり、また小見出しには、 玉座争奪戦に消える 古墳の空白時期と一致...
View Article検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑮」
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年2月6日(金)に第1回から始まり、3月30日(月)に第15回を持って終了した。最後の最後に、文化部次長・久保田順司の名がある。やはり、こういう記事は筆者を明らかにすべきで、記名記事で出すべきではないか。折角奮闘努力されたのである。その功績にも報いる必要がある。...
View Article追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年2月6日(金)の第1回に始まり、3月30日(月)に第15回を持って終了した。15回にも及ぶ特集記事がそれ程行われtいるわけではない。そういう意味で、宮崎日日新聞文化部の労作が特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」となっているのではないか。...
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