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検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑪」

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○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年3月16日(月)に掲載された。見出しには『筑紫の王(上)』とある。また、小見出しには、
  異彩放つ「石人」表飾
  海路要衝押さえ力増す
とある。

○その冒頭に、筑紫の君磐井について、詳しい説明を載せている。
   4世紀から5世紀代にかけて権力基盤を整えつつあった天皇(大王)家や側近の豪族と、親密な関
  係を築いていたとみられるヒムカ系の政治勢力。「牛諸井」に象徴される諸県君一族が権勢を振るっ
  たころ、北部九州でも大きな首長集団が生まれつつあった。
   5~6世紀、福岡県西南部の有明海沿岸に広がる平野に、古墳が次々と造られた。現在の八女市、
  広川町を東西十数舛砲錣燭辰堂切る八女丘陵を中心に、北の久留米市、南の大牟田市周辺に大小の
  古墳が残る。古事記、日本書紀で「筑紫君」と呼ばれるリーダーを擁した一団の墓域とみられ、後に
  古墳時代最大の内乱「磐井の乱」を起こしたとされる筑紫君磐井は、最盛期の長だったと考えられて
  いる。
   このうち、八女丘陵の八女古墳群には約300基の古墳があるとされ、前方後円墳は12基。最初
  に造られたのは、遺物や墳形から5世紀前半の石人山古墳(墳長120叩砲箸澆蕕譴討い襦M明海
  沿岸部では、早い場所では古墳造営が4世紀までさかのぼるのに対して、八女地方では5世紀に入り
  突如、大型の石人山古墳が出現。このため、筑紫君のルーツは移住者とする見方がある。

○ちなみに、ウィキペディアフリー百科事典が載せる「磐井の乱」は、次の通り。
      磐井の乱
   磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率
  いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮
  圧された反乱、または王権間の戦争。この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る
  ヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている。
   磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文(「釈
  日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔
  な記録が残っている。
   なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井
  が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記
  述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視
  する研究者もいる。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1

○「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」記事だけを読むと、何か八女古墳群だけが突出している観がある。しかし、同様の古墳が存在するのは、何も八女古墳群だけではない。筑後川流域にも数多く古墳は存在するし、菊池川流域にも、同じように古墳は存在する。そういうもの全体を見て八女古墳群は語られるべきものではないか。

○つまり、南から菊池川流域、矢部川流域、筑後川流域全てに大古墳群が存在する。決して八女古墳群は孤立した存在では無い。もちろん、その中で岩戸山古墳(墳長138叩砲篝仗融蓋妬(墳長120叩砲最大であることは間違いないけれども。

○それに、それらの古墳の出土物からも、菊池川流域や矢部川流域、筑後川流域の古墳群には共通性が見出される。例えば、石人文化や石棺が挙げられよう。そういうものを考慮すれば、この地が菊池川流域や矢部川流域、筑後川流域に跨る一大文化圏を形成していたものと思わざるを得ない。

○後世、それは筑後国一宮である高良大社へと発展する。正確には、高良大社の歴史がそれ程古いものであることを裏付ける。高良玉垂命を斎き祀る高良大社がどういう信仰に基づくものであるかを探れば、この地に古墳群を形成した人々の姿が見えて来る。

○そういう意味では、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の小見出しに、『海路要衝押さえ力増す』と記すのは印象深い。それなのに、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」では、八女古墳群を形成した人々がどのように『海路要衝押さえ力増』したのかについて、まるで言及していない。それがもっとも肝心な話であるはずなのに。

●本ブログでは、これまで幾度となく、筑後国一宮である高良大社へ参詣を済ませている。何しろ、筑紫は九州島の別名でもある大名である。その筑紫がもともとどういうものであったかを理解せずして九州を語ることは出来ない。

●それに、筑紫が『つくし』だとする「万葉集」の表現が堂々世に罷り通っていることは、何としても是正する必要があろう。九州人であれば、何とも承服し難い。まして筑紫国の方であれば尚更のことである。筑紫は誰が何と言おうと『ちくし』であって、『つくし』などでは無い。

●そういう思いを込めて本ブログでは書庫「しらぬひ考」を書いている。
  ・書庫「しらぬひ考」:11個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/669193.html?m=l

●その中で触れていることだが、高良玉垂神は寶神ではないかと言うことである。
  ・書庫「しらぬひ考」:ブログ『高良神の正体』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/35529066.html

●つまり、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の小見出しに、『海路要衝押さえ力増す』と記すのは、後世の遣唐使船の南島路を意味するのであって、ここで言う「海路」は決して朝鮮半島との交易を指すのではない。遣唐使船の南島路の帰着点が八女古墳群や筑紫国の繁栄を支えていたと言うことである。

●中国との直接交流を計るのが遣唐使船の南島路である。そのルートは三世紀まで遡ることが出来る。圧倒的な中国文化を直接導入するのが遣唐使船の南島路であった。そのルートは既に確認済みである。
  ・会稽→寧波(100辧
  ・寧波→舟山群島(150辧
  ・舟山群島→トカラ列島宝島(600辧
  ・トカラ列島宝島→トカラ列島悪石島(50辧
  ・トカラ列島悪石島(50辧泡トカラ列島諏訪之瀬島(24辧
  ・トカラ列島諏訪之瀬島→トカラ列島中之島(28辧
  ・トカラ列島中之島→トカラ列島口之島(14辧
  ・トカラ列島口之島→口永良部島(59辧
  ・口永良部島→硫黄島(36辧
  ・硫黄島→坊津(56辧

●本ブログでは、これまで会稽を3回訪れ、寧波や舟山群島には5回訪れ、トカラ列島を3回訪問し、硫黄島には6回訪れ、そのことについては既に検証済みである。

●筑紫の君磐井がどのような人物であり、どのようにして権勢を手に入れ、繁栄を成し遂げることが出来たか。そういうことを歴史は教えてくれる。そのためには、古墳だけでなく、宗教や文学、地名など、複合的な視点から見ない限り、見えて来ない。

●それには、人の話を鵜呑みにせず、自分で確かめ、自分の足で現地を訪れてみるしかない。知らないことを話しても仕方の無いことである。

●寧波を訪れると、日本と中国との交流は、最初から最後まで寧波を起点に行われていたことが判る。それ程、寧波は日本と中国の架け橋であった。日本のあらゆる時代の痕跡を寧波に見ることが出来る。世の学者先生は、そういうことを全く知らないで空疎な論を展開している。寧波について、詳しくは以下を参照されたい。
  ・書庫「寧波漫歩」:65個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1204055.html?m=l&p=1
  ・書庫「寧波再歩」:35個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1210154.html?m=l&p=1
  ・書庫「寧波三歩・洛迦山参詣」:34個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1221590.html?m=l&p=1
  ・書庫「観音信仰の島:普陀山」:ブログ『普陀山から余姚へ』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37705818.html
  ・書庫「寧波五歩:雪竇山」:30個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1241669.html?m=l&p=1

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