○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年3月19日(木)に掲載された。見出しには『筑紫の王(下)』とある。また、小見出しには、
半島政策 大王と対立
諸県君と並ぶリーダー
とある。
○前回触れたように、筑紫の王として筑紫君磐井を扱うのであれば、当然、筑紫がどういう国家であったかを理解しておく必要がある。もともと筑紫国の中心は筑前ではなく筑後の方に存在していたことは注目に値する。
○それは筑紫君の存在意義は朝鮮半島との交易にあったのではなく、中国本土との交易にあったことを意味する。実際、筑紫国を訪れてみると、そのことがよく理解される。どう考えても、朝鮮半島との交流に久留米市や八女周辺は非常に利便性に欠ける。それなら、福岡市や糸島市の方が遙かに便利である。
○その筑紫君磐井が引き起こした磐井の乱について、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は詳細に述べている。
北部九州の広範囲に及ぶ首長連合の頂点にいたとみられる豪族「筑紫君」の中で、磐井がリーダー
となり勢力が最盛期を迎えたころ、日本史上に残る「事件」が起こる。
日本書紀の記述をたどる。第26代・継体天皇の治世、朝鮮半島南部で新羅に破られた南加羅・喙
己呑を復興し任那に合併しようと、王権は近江の毛野臣に命じて兵を動かす。これに対して磐井は叛
逆を画策。新羅から賄賂をもらって通じ合い、毛野臣の進軍を妨害した。天皇は物部大連麁鹿火を派
遣し、磐井を討った。
反乱伝承は「磐井の乱」と呼ばれる。当時、朝鮮半島では高句麗や新羅、百済の三国に加え、南部
では小国家が分立する加耶(「紀」では加羅)地域が勢力争いを断続的に展開。ヤマト王権は加耶地
域内に勢力圏(「紀」では任那か)を確保し、百済と近い関係にあった様子が記される。新羅の攻勢
にさらされた百済を救援するヤマト王権。その後の朝鮮半島政策を左右する局面での磐井の行動は、
徳を破り道に背く反乱であると描かれている。
○検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」での主題は、あくまで、古代日向国に於ける西都原の長(オサ)がどういう人物であったかを追求することにある。そのことについて、筑紫君磐井と諸県君との関係について、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、次のようにまとめている。
磐井が活躍したとみられる6世紀代初頭には、ヒムカ系一族は歴史の表舞台からすでに姿を消して
いたが、八女古墳群で石人山古墳(福岡県広川町)が造られた5世紀前半、つまり筑紫君系勢力が最
初のピークを迎えたころは、諸県君系の墓・男狭穂塚、女狭穂塚の築造想定時期と重なる。
同時期の古墳の規模だけで見れば、朝鮮半島や中国との交渉窓口となった大豪族・筑紫君を、諸県
君は上回っていた。「記」「紀」では関係が語られない両豪族、ともにヤマト政権を支えたのか、あ
るいは対峙(たいじ)する立場だったのか。いずれにせよ、当時の九州をリードした両雄には違いな
い。
○この記述内容なら、『諸県君系の墓・男狭穂塚、女狭穂塚』とあるように、あたかも男狭穂塚・女狭穂塚は諸県君系の墓だと言うことになる。しかし、前にも触れたように、諸県君はどう考えても諸県地方の君であって、児湯地方の君ではない。諸県と児湯とでは地域が異なる。
○いくら諸県君が勢力を誇ったとしても、わざわざ他地域に自らの墓を造ることはあり得ない。墓は基本的に自らの土地に造るのが普通だろう。それに諸県君の時代は日向国は現在の鹿児島県と宮崎県全体を指す名称である。加えて、西都市あたりが当時、日向国の中心であったわけでもない。明らかに日向国の中心は、当時薩摩半島にあったとするしかない。
○当時の文化が必ずしも古墳だけではないことにも十分留意する必要があろう。古代は宗教の時代でもある。そういう複眼的視野を持って古代社会を見ない限り、真実は見えて来ない気がしてならない。
○そういう意味では、宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、あまりに古墳に固執し過ぎている。もともと古墳から古代社会を見ようとする視点ではあるけれども、だからと言って、他の要件を無視するのも如何なものか。
○「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が指摘しているように、記紀に見える諸県君の存在は、甚だ気になる。それには諸県が何処で、どういう地域であるかをしっかり見極める必要がある。何故か、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、肝心のそういうことを放擲して論を進めている。それでは諸県君の正体を突き止めることは出来ない。
○折角、諸県君の故郷に居るのである。まずは「諸県」とはどういうものであるかをしっかり規定することだろう。そうすれば諸県君の正体も自ずから見えて来るのではないか。