○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ) 廚ら、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」まで検証してきた。「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」がどのくらい続くかもさっぱり判らないけれども、ここまでの話の中で、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が追い求めているのは、どうやら、古代ヒムカの王、西都原の長(オサ)が諸県君であるような気がしてならない。これから話は進展して、別の方向に向かうのかも知れないけれども、現在の流れでは、古代ヒムカの王、西都原の長(オサ)は諸県君だと言うことらしい。
○それなら、なおさらのこと、諸県君がどういう一族であったかを明確にする必要がある。それで、最初に、諸県君が居住したと思われる諸県郡について考えてみたい。
○寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」には、諸県郡について、次のように載せる。
諸県郡
(和名抄、諸県、牟良加多、今言毛呂加多、據書紀則今言為是。)
日向風土記曰、此郡曩時無郷村里之名、唯県耳有焉。因曰諸県。郷十二、荘三。
○今一郡所管十九郷六十四村。周匝九十五里七町十間半。
○景行紀十八年、諸県君泉媛依献大御食、而其族会之。
○応神紀十一年、有人奏之曰、日向国有嬢子、名髪長媛、即諸県君牛諸井之女。
○天保十四年(1843年)刊行の「三国名勝図会」が載せる諸県郡の案内は、「麑藩名勝考」の記録とほぼ同じ内容なので略す。
○明治4年(1871年)刊行の「薩隅日地理纂考」の記録は、次の通り。
諸県郡
此一郡日向国の内にて鹿児島の管轄なり。丑の方、日向宮崎郡、東、同国那珂郡に界ひ、辰方、海
岸に連り、南、大隅肝付郡に接し、西、同国曽於郡、戌方、同国桑原菱刈の両郡に界ひ、亥方、肥後
国球磨郡に接し、三国四郡に分界す。(郡内都城より視る所の方角を挙ぐ)
一郡の所管二十一郷六十四村周廻九十五里七町十五間なり。
○「薩隅日地理纂考」は全ての郷村を記載しているので、それを列挙してみる。
諸県郡
/森郷:昌明村・亀沢村・向江村・岡松村・楊水流村・浦村・河北村・内堅村・島内村
加久藤郷:川北村・栗下村・榎田村・東永江浦村・西永江浦村・灰塚村・・西郷村・湯田村・
小田村・永山村
H嗅邏拭末永村・池島村・大明寺村・今西村・上江村・大河平村・坂元村・前田村・原田村・
杉水流村
ぞ林郷:細野村・堤村・真方村・東方村・北西方村・南西方村・水流迫村・後河内村
タ槎擽拭Э槎畋次覆海海泙粘二十五)
諸県郡
々盡橋拭麓村・広原村・蒲牟田村・後川内村・前田村・大牟田村・繩瀬村・東霧島村・朝倉村
¬鄂郷:三ケ野山村・麓村・江平村・笛ケ水村・紙屋村
0酋拭南俣村・北俣村
す皺郷:田尻村・向高村・入野村・深年村・北俣村・南俣村・飯田村・花見村・高浜村・五町村・
内山村・浦之名村
チ匆郷:糸原村・有田村
λ垪感拭Ь山田村・上倉永村・下倉永村・高浜村・有田村
Ь綮伊鷆拭大井手村・桜木村・穂満坊村・石山村・有水村
┣嫉伊鷆拭С畛蛎次Τ鮖蛎次μ澹饗次蓼池村
山之口郷:山之口村・富吉村・花木村(ここまで巻二十六)
諸県郡
〇嵒杙峩拭蓬原村・町畠村・夏井村・伊崎田村・原田村・田之浦村・野神村・月野村・内之倉村・
帖村・安楽村・野井倉村
大崎郷:仮宿村・永吉村・横瀬村・神領村・益丸村・菱田村・井俣村・岡別府村・持留村・野方村
松山郷:新橋村・尾野見村・秦野村
に閥拭Э疾鄲次ζ邏紳次諏訪方村・二之方村・岩崎村(ここまで巻二十七)
諸県郡
‥埔覿拭Ь緜紅啾次Φ楷歛次Σ篠紅啾次Ψ憾蟻次Σ賄貘次高木村・金田村・梅北村
⊂影盒拭О賊並次Ω渊縦村・西岳村・岩満村・上水流村・横市村・中霧島村・山田村・丸谷村・
下水流村・野々見谷村(ここまで巻二十八)
○これが諸県君の居たと想定される諸県郡の範囲となる。ただ、この規定は、あくまで江戸時代のものであって、古代のものではない。しかし、この範囲を眺めると、おおよそ、諸県郡がどういうところであったかが見えてくるような気がする。
○諸県郡の字面から、どうしても、諸県郡の意味内容が「おおくの県(あがた)が存在するところ」と言うふうに勘違いされてしまう。しかし、上記郷村に、「諏訪方村」「二之方村」とかあるように、もともと「両方」が『もろかた』地名の起源であるように思われる。
○どういうことかと言うと、ここには分水嶺が存在し、一方は大淀川として都城盆地を経由して日向灘へと流れ注ぐ。もう一方は菱田川・安楽川として志布志湾へと流れ注ぐ。大淀川と安楽川の本流の距離は、曽於市末吉町南之郷高岡口では、直線距離で400辰曚匹靴ない。また、大淀川と菱田川の本流の距離は末吉町二之方川内では、直線距離で3、5劼曚匹任△襦
○また、ここが北諸県郡と南諸県郡の分界ともなっている。そういうことを考慮すると、諸県郡の起源は鹿児島県曽於市末吉町と宮崎県都城市中郷だとするしかない。
○おそらく、諸県はこの地から拡大した。一方は、大淀川に沿って北上し、ほとんど大淀川河口近くまで広がった。もう一方は、菱田川・安楽川として南下し、志布志湾まで広がった。それが諸県郡と言う、国規模の郡となったものと思われる。