○前回、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)А廚蓮◆崙椽餤」景行天皇紀が記録する景行天皇の九州征討の話であった。そこに記録されている景行天皇作歌とされる、
倭は 国のまほらま 畳づく 青垣山 籠もれる 倭し麗し
は名歌であり、名高い。ただ、それは倭建命の絶唱、
倭は 国のまほろば 畳づく 青垣山 籠もれる 倭し麗し
として広く喧伝されていることではあるけれども。
○今回案内するのは、宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)─廚箸靴董■横娃隠鞠3月5日(木)に掲載されたものである。メイン見出しには『天皇妃・髪長媛』とあり、更に、
「諸県君」王権中枢へ
大古墳築造時期と符合
の小見出しが躍っている。
○「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)─廚遼粗部分は、次の通り。
熊襲討伐のため九州遠征をした第12代・景行天皇の伝承以降、ヒムカの名は古事記や日本書紀か
らいったん姿を消す。そこで関係が断絶したわけではなく、ほかに記すべき「天皇家にとっての歴史」
が、優先して掲載されたとみられる。第14代・仲哀天皇は熊襲討伐を行おうとしたが、先に新羅を
討つべしとする神託を疑ったため神の怒りに触れ急死したと記述。ヤマト政治勢力の最重要課題が、
朝鮮半島情勢への対応になっていた状況を物語る。
○時代は第12代・景行天皇から13代・成務天皇、14代・仲哀天皇、15代・応神天皇、16代・仁徳天皇の御代と移る。しかし、現実的には、「日本書紀」に拠れば、第14代・仲哀天皇と15代・応神天皇との間には神功皇后紀が存在していて、その存在を無視することは出来ない。
○もともと神功皇后は第15代天皇であった可能性が高い。その歴史が現在のように変更されたのは近代になってからのことである。私たちが学ぶ日本史には、そういう恣意が含まれていることを忘れてはなるまい。つまり、遙か後世になって、その時の為政者の都合で、勝手に歴史は変更されるのである。「日本書紀」を読む限り、神功皇后の治世は69年にも及び、決して無視出来るものではない。
○加えて、神功皇后は住吉大神の一つに数えられるし、八幡信仰でも八幡三神として祀られている。そういう天皇がそれ程存在するわけではない。だから、並み居る天皇の中でも、神功皇后は突出した存在となっている。
○因みに、神功皇后前後の在位は次のようになっている。
・第12代・景行天皇:60年
・第13代・成務天皇:60年
・第14代・仲哀天皇:9年
・第15代・応神天皇:41年
・第16代・仁徳天皇:87年
○これらの天皇の中で、現在でも日本各地で崇め祀られている天皇は、八幡神の応神天皇くらいのものである。如何に神功皇后の存在が大きいかが判る。
●話を元に戻して、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)─廚載せる髪長媛の話をしたい。
朝鮮半島情勢の流動化にともない、日本列島の中で国家という枠組みが意識され始めたころ、「日
向髪長媛」とその父「諸県君牛諸井」という、ヒムカ系一族の名が再び現れる。「紀」では、美女と
名高い髪長媛を応神天皇が見初めて桑津邑(現在の大阪市か)に招き入れたところ、当時皇太子だっ
た仁徳天皇が一目惚れし、応神天皇から媛を譲り受けたとしている。(中略)
「記」「紀」編者が把握していた伝承の中で、髪長媛の話は天皇家にとって「残すべき歴史」だっ
た。その理由を父の諸県君牛諸井に求めるのが、県文化財課の北郷泰道専門主幹。「単に天皇に仕え
た人物というだけでなく、記事を特別扱いするほど、娘の婚姻には意味があったのではあないか」と
推察する。時期は国外の文書で記される倭国の記述などど照らし合わせると、4世紀後半~5世紀初
頭が想定される。ヒムカでは男狭穂塚・女狭穂塚築造の想定時期と符合する。
●実際、「日本書紀」巻第十、応神天皇紀には、応神天皇十一年の条に、その記述が見える。
十一年の冬十月に、剱池・軽池・鹿垣池・厩坂池を作る。
是歳、人有りて奏して曰さく、「日向国に嬢子有り。名は髪長媛。即ち諸県君牛諸井が女なり。是、
国色之秀者なり」ともうす。天皇、悦びて心の裏に覓さむと欲す。
十三年の春三月に、天皇、専使を遣はして、髪長媛を徴さしむ。
●「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)─廚盖しているように、この後、仁徳天皇との長い恋愛話が続く。あまりに長いので略するしかない。
●ただ、諸県君の初出は、景行天皇紀に次のようにある。
十八年の春三月に、天皇、京に向さむとして、筑紫国を巡狩す。始めて夷守に到る。是の時に、石
瀬河の邊に、人衆聚集へり。是に、天皇遙に望りて、左右に詔して曰はく、「其の集へるは何人ぞ。
若し賊か」とのたまふ。乃ち兄夷守・弟夷守、二人を遣して覩せたまふ。乃ち、弟夷守、還り来て諮
して曰さく、「諸県君泉媛、大御食を献らむとするに依りて、其の族会へり」ともうす。
●また、岩波「日本古典文学大系本:日本書紀上」には、『諸県』について、次のように注している。
諸県は、日向国西部の地名。延喜民部式・和名抄に同国諸県郡がある。今、宮崎県東諸県郡・西諸
県郡・北諸県郡・小林市・都城市、および鹿児島県曽於郡の東部。諸県君は、その地方の族長。応神
十一年是歳条に、日向国の髪長媛を諸県君牛諸井の女とし、応神記にも日向国諸県君の女とある。泉
媛と類似の名に、応神天皇の妃日向泉長媛(応神二年三月条)がある。なお、、令制雅楽寮に雑楽の
一つとして伝えられた諸県舞は、この部族の歌舞であろう。
●この岩波「日本古典文学大系本:日本書紀上」の『諸県』の定義にしてところで、まるで的を射ない案内と言うしかない。それは私が居住しているのが諸県地方なのだから、間違いない。ただ、話が長くなりそうなので、詳しくは、別に案内することにしたい。
○「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)─廚任蓮
時期は国外の文書で記される倭国の記述などど照らし合わせると、4世紀後半~5世紀初頭が想定
される。ヒムカでは男狭穂塚・女狭穂塚築造の想定時期と符合する。
とあって、まるで男狭穂塚・女狭穂塚が諸県君牛諸井と関係するかのような記述となっているのが気になった。諸県と西都市とは隣接しているが、まるで異なる。おそらく、それは古代まで同じである。
○同じ日向国ではあるけれども、児湯と諸県とでは、何から何まで違うと言うしかない。宮崎日日新聞なら、そのことは十分ご存じのはずである。それなのに、ここで無理して男狭穂塚・女狭穂塚と諸県君牛諸井とを結び付けようとする考え方には、疑問を抱かざるを得ない。
○今のところ、諸県君は謎の一族と言うしかない。その勢力範囲は、ほぼ国に匹敵する。それなのに、文献上に表れる諸県君の記述は極めて僅かなものとなっている。諸県に居住しながら、諸県君の正体を突き止めることが出来ない。安易に男狭穂塚・女狭穂塚と諸県君牛諸井とを結び付けようとすることは、極めて危険であると言うしかない。判らないものは、取り敢えず、判らないとしておくのが良いのではないか。