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検証「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)⑦」

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○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)А廚掲載されたのは、2015年3月2日(月)のことであった。見出しには『景行の西征』とある。まるで神武天皇の東征を髣髴とさせる表現である。

○普通の人には、見出しの『景行の西征』から、景行天皇の九州征伐を想起させることは難しいのではないか。特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」には、ところどころ、こういう一風変わったと言うか、普段に目にすることのない表現があって、気になる。

○例えば、「瓊瓊杵、木花姫」と表現している。それが瓊瓊杵尊や木花開耶姫であることは容易に判るのだが、普通には、このような表現はしない。瓊瓊杵尊や木花開耶姫を、「瓊瓊杵、木花姫」と略したところで、益は無いからである。却って、普通に表現することの大事さを痛感させられる。何でも略して良いものでもない。読む人には結構目障りな表現となっている。

○「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)А廚遼粗は、次の通り。
   「古事記」「日本書紀」をたどると、ニニギノミコト日向三代、それに続く初代・神武天皇が、ヒ
  ムカの地を舞台にした物語を展開する。その次にヒムカと関係が深い人物として登場するのが第12
  代・景行天皇だ。
   日本書紀では、景行天皇が纒向日代宮(現・桜井市に伝承地)を構えていたころ、熊襲が反抗して
  貢ぎ物を納めなかったため、天皇自ら九州へ遠征。ヒムカに入り「高屋宮」という仮宮を建てた。そ
  の翌年には「襲国」をことごとく平定、美女で名高い御刀媛を妃とした。高屋宮で6年間過ごす間に
  「児湯県」の「丹裳小野」を訪問。そこで「この国は日の出る方を向いている」と称したことから「
  日向」の名が付いたと伝える。
   景行の事績は、物語性が色濃い。また、古事記では熊襲を討伐したのは景行の子・倭建命(やまと
  たけるのみこと)と記すなど、不明な点が多い。ただし、ヒムカの地は熊襲討伐の前線基地となる仮
  宮を置くことが可能な、ヤマトと関係が深い場所だったという共通認識が「紀」の編さん時にあった
  ことはうかがえる。

○日向国を考える上で、「日本書紀」景行天皇紀の記録は、見逃せない。ただ、上記「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」記事でも触れているように、「古事記」と「日本書紀」とでは記述内容が異なる。「古事記」が記す景行天皇記は、景行天皇記と言いながら内実は倭建命の独壇場に過ぎず、景行天皇はまるで影が薄い。それは一般に『倭建命の一代記』と評されるほどである。

○それに対して、「日本書紀」景行天皇紀で九州征伐を挙行したのは、あくまで景行天皇本人となっている。両者を比較すると、明らかに「古事記」の方に造作性が高いと判断するしかない。そう言う意味では、「日本書紀」の方が史実に近いのではないかと思われる。

○また、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」記事が肝心の「日本書紀」の原文を提示していないことも気になる。原文は以下の通り。
   十三年の夏五月に、悉に襲国を平けつ。因りて高屋宮に居しますこと已に六年なり。是に其の国に
  佳人有り。御刀媛と曰ふ。則ち召して妃としたまふ。豊国別皇子を生めり。是、日向国造の始祖なり。
   十八年の春三月の戊戌の朔己酉に、子湯県に幸まして、丹裳小野に遊びたまふ。時に東を望して、
  左右に謂りて曰く、「是の国は直く日の出づる方に向けり」とのたまふ。故、其の国を号けて日向と
  曰ふ。是の日に、野中の大石に陟りまして、京都に偲びたまひて歌して曰はく、
    愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
    倭は 国のまほらま 畳づく 青垣山 籠もれる 倭し麗し
    命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白橿が枝を 髻華に挿せ 此の子
  是を思邦歌と謂ふ。

○ここにある、
  倭は 国のまほろば 畳づく 青垣山 籠もれる 倭し麗し
は「古事記」では倭建命の絶唱として名高い。

○しかし、「日本書紀」に従えば、景行天皇は子湯県丹裳小野で野中の大石に陟り、京都を偲んで歌った和歌が、
  倭は 国のまほらま 畳づく 青垣山 籠もれる 倭し麗し
と言うことになる。

○この子湯県丹裳小野は、現在の西都市三宅あたりだとされる。ここからは東に一ツ瀬川の先に日向灘が望まれ、西には霧島山の頂上部が望見される。つまり、景行天皇は『畳づく青垣山』の向こうに倭(やまと)国を見ているのが判る。

○そう考えると、「日本書紀」で景行天皇が、
  倭は 国のまほらま 畳づく 青垣山 籠もれる 倭し麗し
と詠う「倭(やまと)」は霧島山の向こうだと言うことが判る。決して奈良県の大和国ではない。

◎誰もが大和三山が奈良県に存在する、
  ・畝傍山(199.2m)
  ・香具山(152.4m)
  ・耳成山(139.7m)
であることは理解している。しかし、実際、大和三山がどういう山であるかを理解している人は少ない。本ブログでは、これまで、
  第一回  平成4年3月28日
  第二回  平成15年8月11日
  第三回  平成17年5月10日
  第四回  平成21年3月29日
  第五回  平成22年4月3日
  第六回  平成23年5月3日
と六回大和三山に登り、詳しい検証を済ませている。詳しくは以下のブログを参照されたい。
  ・書庫「大和三山」:23個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201946.html?m=l&p=1

◎また、真実の大和三山は鹿児島県に存在する。
  ・畝傍山=霧島山(1700叩
  ・香具山=桜島山(1117叩
  ・耳成山=開聞岳(924叩
大和三山が二つも存在するのでは何とも紛らわしい。それで、鹿児島の大和三山を私は邪馬台国三山と呼んでいる。邪馬台国三山については、以下のブログを参照されたい。
  ・書庫「邪馬台国三山」:54個のブログ
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1264643.html?m=l&p=1

◎「古事記」「日本書紀」は、八世紀の史書であるにも拘わらず、物語性が極めて高い。それは三世紀に成立した「三国志」と読み比べれば、誰にでも容易に理解されることである。だから、「古事記」や「日本書紀」を読む際には、そういうことに十分留意する必要がある。

◎宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、そういうことに十分留意していないのが惜しまれる。学者先生はそういうふうにおっしゃるかも知れないが、折角、地元に居るのである。是非とも、子湯県丹裳小野へ出掛け、望見することをお勧めする。そうすれば、「日本書紀」景行天皇紀が記録する、
  倭は 国のまほらま 畳づく 青垣山 籠もれる 倭し麗し
を見ることが出来る。学者先生のおっしゃることが途方もない話であることが判る。

◎自分の目を信じるか。はたまた、学者先生の説に盲従するかは自由である。しかし、地元に居て、そういうことを確認もせず、報道しないのであれば、何とも寂しい話である。宮崎日日新聞が宮崎県の地元紙を標榜するのであれば、それくらいの気概くらいは見せて欲しい。

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