○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が古代ヒムカの西都原の長(オサ)を追求しながら、諸県君を追跡しているのが気になって仕方が無い。
○その後、宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、2015年3月23日(月)に「悲劇の皇(上)」、3月26日(木)に「悲劇の皇(下)」と続け、相変わらず諸県君牛諸井とその子である髪長媛の子孫を追い続けている。
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が、まだはっきりと男狭穂塚・女狭穂塚が諸県君牛諸井とその子である髪長媛だと明言しているわけでは無いけれども、この流れなら、男狭穂塚・女狭穂塚は諸県君牛諸井とその子である髪長媛だと言うことになるのではないか。
○本ブログでは、これまで、「諸県地域」・「諸県とは何か」・「諸県君の信仰」と続け、諸県及び諸県君が何処がその原点であり、その地域がどういうところであり、その信仰がどういうものであったかについて言及してきた。
○諸県及び諸県君を考える上で、どうしても触れなければならないものに「諸県のシンボル」がある。それは霧島山高千穂峯を指す。諸県地域を語るのに、霧島山高千穂峯を抜きに語ることはできない。それは現在でもそうである。
○夏目漱石「草枕」に、次のような記述がある。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通し
て、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそん
な世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ち
になれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこま
でも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから
いわゆる詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正
義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面
の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理は
ない。
うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。
採菊東籬下 菊を採る、東籬の下、
悠然見南山 悠然として南山を見る
ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる
訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去
った心持ちになれる。 「草枕」
○ここに紹介されている『採菊東籬下 悠然見南山』句は、陶淵明「飮酒二十首・其五」詩の一節である。
飮酒二十首・其五
陶淵明
結廬在人境 廬を結びて人境に在り
而無車馬喧 而も車馬の喧しき無し
問君何能爾 君に問う 何ぞ能く爾ると
心遠地自偏 心遠ければ 地 自ずから偏なり
採菊東籬下 菊を採る 東籬の下
悠然見南山 悠然として南山を見る
山氣日夕佳 山気 日夕に佳し
飛鳥相與還 飛鳥 相ひ与に還る
此中有眞意 此の中に真意有り
欲辯已忘言 弁ぜんと欲して已に言を忘る
○陶淵明「飮酒二十首・其五」詩については、詳しくは、以下を参照されたい。
・書庫「廬山・九江」ブログ『陶淵明:飮酒二十首・其五』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38320297.html
○夏目漱石は廬山を訪れているわけでは無いから、陶淵明が見た光景を想像するしかない。実際、陶淵明が生きた廬山鎮から廬山を眺めると、陶淵明は必ずしも漱石が言うように廬山を眺めているわけではない。廬山は信仰の山である。廬山の麓には慧遠法師の東林寺が存在する。詳しくは、以下を参照されたい。
・書庫「廬山・九江」:ブログ『慧遠:游廬山』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38372940.html
・書庫「廬山・九江」:ブログ『慧遠:廬山略記』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38376010.html
・書庫「廬山鎮:東林寺」:ブログ『東林寺の慧遠法師』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39041441.html
○諸県盆地から望む霧島山高千穂峯は、まさに廬山鎮から眺める廬山と同じである。特に末吉郷から望む霧島山高千穂峯は天下一品である。それは見た者しか理解出来ない。東西南北、全ての方角から霧島山高千穂峯を見ているが、末吉郷からがもっとも大きく気品のある霧島山高千穂峯を見ることが出来る。
○意外に、人は霧島山高千穂峯がどんな山であるかを知らない。天孫降臨の世界山だと理解している人は居るかも知れないが、霧島山高千穂峯の凄さはそれだけでは終わらない。霧島山は畝傍山でもある。
○本ブログでは、これまで、そういうことを詳細に検証している。詳しくは、以下をご覧いただくしかない。
・書庫「大和三山」:23個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201946.html?m=l&p=1
・書庫「天孫降臨の世界山」:37個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1215462.html?m=l&p=1
・書庫「邪馬台国三山」:54個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1264643.html?m=l&p=1
○奈良県橿原市へ行くと、畝傍山の東南に橿原神宮が鎮座ましまし、東北には神武天皇の御陵、霧島山=畝傍山がある。橿原神宮の鎮座まします場所は神武天皇の橿原宮だったところとされる。
○宮崎県と鹿児島県の国境に霧島山高千穂峯は立っている。宮崎県西諸県郡高原町に狭野神社が鎮座まします。ここには神武天皇ご誕生の伝承が伝わる。それは単なる伝承だけではなく、「日本書紀」一書にも、
狭野と申すは、是、年少くまします時の号なり。
と記している。
○それなら、神武天皇は諸県生まれと言うことになる。いずれにせよ、神武天皇は霧島山=畝傍山で生まれ、霧島山=畝傍山の麓に橿原宮を営み、霧島山=畝傍山の麓に眠っていることは間違いない。
◎諸県のシンボル、霧島山高千穂峯はそういう山である。諸県や諸県君を考える時、霧島山高千穂峯を抜きに考えることは出来ない。宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が、そういうことに一切言及しないのは何処かおかしい。