○前回に引き続き、今回は「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」第14回について触れてみたい。「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」第14回は3月26日(木)、宮崎日日新聞に掲載された。
○「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」第14回の見出しには『悲劇の皇族(下)』とあり、また小見出しには、
玉座争奪戦に消える
古墳の空白時期と一致
の文字が躍る。もちろん、前回の『悲劇の皇族(上)』を踏まえての話であることは言うまでも無い。
○前回、『悲劇の皇族(上)』の話は、第20代安康天皇によって、大草加皇子が抹殺された話であった。大草加皇子は、諸県君牛諸井の娘、髪長媛と仁徳天皇との間の子である。大草加皇子の妻、中帯姫は安康天皇の皇后となった。その後の悲劇を、新聞記事では次のように案内している。
「紀」によるあらすじを紹介する。安康天皇は中帯姫を寵愛し、皇后とした。酒宴の席で天皇は、
弟の大泊瀬皇子(後の第21代・雄略天皇)と大草加皇子の妹・幡梭皇女の縁談を進めたときの話を
語り始めた。大草加皇子が縁談を蹴った、とする使者の話を信じて皇子をあやめたことを振り返り、
皇子の忘れ形見である眉輪王を恐れていると中帯姫に漏らした。たまたま楼閣の下で遊んでいた幼少
の眉輪王は、話を残らず聞いてしまう。そして、寝入った天皇を刃にかけた。
兄が崩じたことを知り、後の雄略天皇はすぐさま挙兵、まずは同母兄・八釣白彦皇子を詰問し、答
えなかったために斬る。雄略を恐れた別の兄・坂合黒彦皇子は、眉輪王とともに葛城氏系の豪族・円
大臣のもとへ逃げる。雄略は大臣の家を囲んで火を放ち、三人は命を落とした。
○こういう話からは、一切「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の話は見えて来ない。しかし、「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の話は、この大和朝廷の争乱と密接な関係があるとするのが宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の記事である。
中国の史書「宋書」の倭国伝にみえる「武」王の記述や、稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣
に刻まれた「獲加多支歯大王」という文字が雄略天皇を指すと見なした場合、治世は即位前を含めて
5世紀代だと考えられる。この時期に、眉輪王の事件が発生したことになる。
そうすると、「ヤマト中枢の動きに連動するかのように西都原古墳群の変遷が符合する」と県文化
財課の北郷泰道専門主幹は指摘する。同古墳群では、最大規模の男狭穂塚、女狭穂塚が築造されて以
降、本来ならば次世代の長を祭る大型古墳が造られたはずの時期に、突如として前方後円墳を築造し
た形跡が全く見られなくなるという。
この空白期間として想定されるのは、5世紀前半からの数十年間。大草加皇子や眉輪王の悲劇が繰
り広げられた時期と重なる。天皇への仇をなす者として命を落とした皇族父子と、その罪に連座して
権力を失ったヒムカ系一族の悲哀。古墳群にはそんなメッセージが刻まれているのかもしれない。
一ツ瀬川流域では、西都原と入れ替わるように祇園原(新田原)古墳群で前方後円墳の築造が活発
になる。まるで時代の転換、首長グループの交代を示しているかのように。
○宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」の、こういう意見はなかなか面白い。こういう視点から歴史を見、古墳を眺めるのも楽しい。
●ただ、気になって仕方が無いのは、西都原古墳群が存在するのは日向国児湯郡だと言うことである。ここは歴史上、一回も諸県に属したことが無い。児湯郡と諸県郡とは隣接はしているけれども、まるで別地域である。そんなところに諸県君が果たして墓を造営することがあるだろうか。
●それに、諸県郡の原点が末吉郷二之方であることにも留意すべきであろう。つまり、諸県君の中心は、あくまで、宮崎県と鹿児島県の県境あたりにあったと想定される。それなら、随分、西都原とは離れている。
●どう考えても、西都原と諸県君は結び付かない。それで諸県君と男狭穂塚・女狭穂塚を結び付けようとすることには、相当無理がある。第一、墓は産土に造営するのが普通だろう。
●宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」は、何故か、諸県の定義を図ろうとしない。諸県の定義無しに諸県君や諸県郡の話をしたところで、それは無益と言うしかない。
●そういう肝心なことを宮崎日日新聞の特集記事「追跡:古代ヒムカ:西都原の長(オサ)」が放棄していることが惜しまれてならない。
●併せて、考えて欲しいのは葛城氏の信仰についてである。葛城氏の信仰は賀茂神である。その起源はおそらく大隅半島であろう。そういう意味でも、葛城氏と諸県君は親しい。