○「邪馬台国と投馬国」「景行天皇と日向国」と題して、投馬国について言及しているが、今回は「日向国と投馬国」と題して、日向国の宮崎県部分について触れたい。旧日向国は大きく三つの部分に分かれる。後世、それが薩摩国・大隅国・日向国となった。
○その南九州は、「三国志(魏志倭人伝)」に拠れば、三世紀には、投馬国・邪馬台国・狗奴国の三国に分かれていたと言う。それは八世紀の分国によって、邪馬台国=薩摩国、狗奴国=大隅国、投馬国=日向国となったところと、おおよそ一致するのではないか。
○ただ、それが三世紀の投馬国と、八世紀の日向国と、現代の宮崎県と、そのまま一致するかと言うと、そうではあるまい。宮崎県北部には日向市が存在する。日向市は『ひゅうがし』と銘打っているくらいだから、日向国の只中に位置すると思ってしまう。しかし、多分、そうではない。
○その日向市の南部を流れる川を耳川と言う。河口には美々津と言う港が存在する。この耳川が境界を為す川だと言う意味なら、おそらく、古代の日向国の北限はこの川だったと思われる。つまり、日向市の大部分は、古代に於いて、日向国ではなかったのではないか。
○耳川の河口は、水深もあり、天然の良港となっている。江戸時代までは日向国の交易港として栄えた港町である。美々津には神武東征時のお船出地の伝承が残るところでもある。
・書庫「邪馬台国その後」:ブログ『神武東征ーお船出の地ー美々津』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/8120416.html
○日向国の北限を耳川だとすれば、南限は何処になるのだろうか。諸条件を勘案すれば、鹿児島県志布志市から大崎町一帯が日向国の南限だとするしかない。
●史家の間では、志布志市一帯を大隅国大隅郡大隅郷とする説が有力らしい。ずっと、大隅国の歴史を追い掛けていると、どうも、その説に同調しかねるように思えて来た。もし、大隅国大隅郡大隅郷が成立するとすれば、それは大隅半島南部であって、志布志付近では無いのではないか。
●それに、志布志付近は日向国諸県郡の一部であって、大隅国にはそぐわない。それは諸県郡の成立にも関係することである。長いこと、諸県を追及することによって、それは明らかとなった。詳しくは以下を参照されたい。
・書庫「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『諸県地域』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39521076.html
・書庫「投馬国はどんな国家だったか」:ブログ『諸県とは何か』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39523432.html
●古代に於いて、日向国(薩摩国・大隅国・日向国の日向国)の中心が諸県郡であったことは間違いあるまい。三世紀の投馬国は、そういう意味では日向国とイコールではない。それほど古代に於ける日向国には変遷がある。
◎「三国志(魏志倭人伝)」に拠れば、三世紀に南九州には、投馬国・邪馬台国・狗奴国の三国が存在したと言う。邪馬台国が薩摩半島であり、狗奴国が大隅半島であるならば、投馬国は現在の宮崎県一帯だと言うしかない。
◎宮崎県の一ツ瀬川中流域に妻地名が存在し、そこは日向国の国府が存在したとされる。付近には西都原古墳群を始めとして、多くの古墳群が存在する。このあたり一帯が古代に於いて繁栄していたことは間違いない。
◎そういう意味では、ここが投馬国だったと思われる。古墳の状況からも、三世紀ころからの古墳が存在するとされている。この一帯の古墳群を列挙すれば、
・西都原古墳群 ・持田古墳群 ・川南古墳群 ・木城古墳群 ・富田古墳群
・茶臼原古墳群 ・本庄古墳群 ・生目古墳群 ・下北方古墳群 ・蓮ヶ池古墳群
と、膨大な古墳が存在する。これだけの古墳が存在するところも珍しいのではないか。
◎前回案内した「景行天皇と日向国」の事蹟が何時の時代のものか、特定することは容易ではない。もし、これが特定できれば、日向国の歴史が随分理解されることになるのではないか。併せて、天皇家と日向国との関係性も気になるところである。
◎仁徳紀や応神紀にも、日向国は出現し、髪長姫や諸県君が登場する。そういうことも併せて天皇家と日向国との関係は探る必要がある。
◎この時代、日向国を話すのに、諸県君を避けて通ることはできない。ただ、諸県君については、ほとんど解明されていないのが現状である。詳しくは以下のブログを参照されたい。
・書庫「投馬国はどんな国家だったか」:30個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1267193.html?m=l&p=1