○皮日休にも「洛中寒食二首」詩がある。今回は、皮日休「洛中寒食二首(其一)」詩を案内したい。
【原文】
洛中寒食二首(其一)
皮日休
千門萬戶掩斜暉
繡幰金銜晚未歸
擊鞠王孫如錦地
斗雞公子似花衣
嵩雲靜對行台起
洛鳥閑穿上苑飛
唯有路傍無意者
獻書未納問淮肥
【書き下し文】
洛中寒食二首(其一)
皮日休
千門万戸を、斜暉の掩ふも、
繍幰金銜は、晩に未だ帰らず。
鞠を撃つ王孫は、錦地の如く、
鶏を斗かはす公子は、花衣に似る。
嵩雲は静かに行台に対して起ち、
洛鳥は閑かに上苑を穿りて飛ぶ。
唯だ路傍に無意の者のみ有りて、
献書を未だ納れず、淮肥を問ふ。
【我が儘勝手な私訳】
洛中の千門万戸を斜陽が照らし出している夕方と言うのに、
美しく飾った馬車や馬の行列は、日が暮れてもまだ帰って来ない。
打鞠を楽しむ王族の若者達の様子は、まるで錦絵のように美しく、
闘鶏を楽しむ皇族の若者達の様子は、まるで華装のように華やかだ。
旅館から望むと、嵩山の雲は静かに湧き上がり、
上林苑の上には、都鳥たちが長閑に群れ飛ぶのを見る。
唯一人、路の傍らに何も考えない暢気者が居て、
春の天下泰平が何時までも続くと信じて疑わない。
○日本のウィキペディアフリー百科事典が案内する皮日休は、次の通り。
皮日休
皮 日休(ひ じつきゅう 830年代 - 883年)は、中国唐代の詩人、革命的社会派の学者である。
襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身。字は襲美、号は閑気布衣、鹿門子、醉吟先生、醉士。友人に、同
年代の詩人である陸亀蒙(陸龜蒙)がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%AE%E6%97%A5%E4%BC%91
○中国の『百度百科』が載せる皮日休は、次の通り。
皮日休
皮日休(约838—约883[1] ),晚唐文学家。字袭美,一字逸少,汉族,复州竟陵(今湖北天门)
人。曾居住在鹿门山,自号鹿门子,又号间气布衣、醉吟先生、醉士等。
皮日休是晚唐著名诗人、文学家,与陆龟蒙齐名,世称"皮陆"。咸通八年(867)进士及第,在唐时
历任苏州军事判官(《吴越备史》)、著作佐郎、太常博士、毗陵副使。后参加黄巢起义,或言“陷巢
贼中”(《唐才子传》),任翰林学士,起义失败后不知所踪。诗文兼有奇朴二态,且多为同情民间疾
苦之作。被鲁迅赞誉为唐末“一塌糊涂的泥塘里的光彩和锋芒”[1] 《新唐书·艺文志》录有《皮日休
集》、《皮子》、《皮氏鹿门家钞》多部,皮日休是唐代著名文学家,对于社会民生有深刻的洞察和思
考。
http://baike.baidu.com/view/11081.htm
○日本のウィキペディアフリー百科事典は、皮日休を『中国唐代の詩人、革命的社会派の学者である』と断じているけれども、それは当たらない。そういう後世の社会通念で唐代の詩人を評価することには、相当無理がある。
○皮日休がどういう詩人であり、人物であったか。それは本人が述べているように、『鹿门子,又号间气布衣、醉吟先生、醉士』がもっともふさわしい。おそらく、皮日休が目指したのは道士にほかならない。それは決して『中国唐代の詩人、革命的社会派の学者である』などではない。
○そのことは、また皮日休の「洛中寒食二首(其一)」詩を読むと、よく理解されることでもある。
【原文】
洛中寒食二首(其一)
皮日休
千門萬戶掩斜暉
繡幰金銜晚未歸
擊鞠王孫如錦地
斗雞公子似花衣
嵩雲靜對行台起
洛鳥閑穿上苑飛
唯有路傍無意者
獻書未納問淮肥
【書き下し文】
洛中寒食二首(其一)
皮日休
千門万戸を、斜暉の掩ふも、
繍幰金銜は、晩に未だ帰らず。
鞠を撃つ王孫は、錦地の如く、
鶏を斗かはす公子は、花衣に似る。
嵩雲は静かに行台に対して起ち、
洛鳥は閑かに上苑を穿りて飛ぶ。
唯だ路傍に無意の者のみ有りて、
献書を未だ納れず、淮肥を問ふ。
【我が儘勝手な私訳】
洛中の千門万戸を斜陽が照らし出している夕方と言うのに、
美しく飾った馬車や馬の行列は、日が暮れてもまだ帰って来ない。
打鞠を楽しむ王族の若者達の様子は、まるで錦絵のように美しく、
闘鶏を楽しむ皇族の若者達の様子は、まるで華装のように華やかだ。
旅館から望むと、嵩山の雲は静かに湧き上がり、
上林苑の上には、都鳥たちが長閑に群れ飛ぶのを見る。
唯一人、路の傍らに何も考えない暢気者が居て、
春の天下泰平が何時までも続くと信じて疑わない。
○日本のウィキペディアフリー百科事典が案内する皮日休は、次の通り。
皮日休
皮 日休(ひ じつきゅう 830年代 - 883年)は、中国唐代の詩人、革命的社会派の学者である。
襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身。字は襲美、号は閑気布衣、鹿門子、醉吟先生、醉士。友人に、同
年代の詩人である陸亀蒙(陸龜蒙)がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%AE%E6%97%A5%E4%BC%91
○中国の『百度百科』が載せる皮日休は、次の通り。
皮日休
皮日休(约838—约883[1] ),晚唐文学家。字袭美,一字逸少,汉族,复州竟陵(今湖北天门)
人。曾居住在鹿门山,自号鹿门子,又号间气布衣、醉吟先生、醉士等。
皮日休是晚唐著名诗人、文学家,与陆龟蒙齐名,世称"皮陆"。咸通八年(867)进士及第,在唐时
历任苏州军事判官(《吴越备史》)、著作佐郎、太常博士、毗陵副使。后参加黄巢起义,或言“陷巢
贼中”(《唐才子传》),任翰林学士,起义失败后不知所踪。诗文兼有奇朴二态,且多为同情民间疾
苦之作。被鲁迅赞誉为唐末“一塌糊涂的泥塘里的光彩和锋芒”[1] 《新唐书·艺文志》录有《皮日休
集》、《皮子》、《皮氏鹿门家钞》多部,皮日休是唐代著名文学家,对于社会民生有深刻的洞察和思
考。
http://baike.baidu.com/view/11081.htm
○日本のウィキペディアフリー百科事典は、皮日休を『中国唐代の詩人、革命的社会派の学者である』と断じているけれども、それは当たらない。そういう後世の社会通念で唐代の詩人を評価することには、相当無理がある。
○皮日休がどういう詩人であり、人物であったか。それは本人が述べているように、『鹿门子,又号间气布衣、醉吟先生、醉士』がもっともふさわしい。おそらく、皮日休が目指したのは道士にほかならない。それは決して『中国唐代の詩人、革命的社会派の学者である』などではない。
○そのことは、また皮日休の「洛中寒食二首(其一)」詩を読むと、よく理解されることでもある。