○前回「邪馬台国が薩摩国であること」で案内したように、邪馬台国を代表する風景が邪馬台国三山である。その邪馬台国三山である、
・うねびやま=霧島山(1700叩
・かぐやま=桜島山(1117叩
・みみなしやま=開聞岳(924叩
が如何に神々しい風景であるかは、それらの山々が現在でも信仰の山として存在することからも明らかである。
○それに、実際、「うねびやま=霧島山(1700叩法廚ら「かぐやま=桜島山(1117叩法廚望見されるし、その先には滅多に見ることは出来ないけれども「みみなしやま=開聞岳(924叩法廚盡ることが出来るのである。そういうことは、霧島山や開聞岳に登った経験が無い限り、実感できない。
○そういう邪馬台国三山を、そっくりそのまま小さくして造作しているのが大和三山である。山を造作することなど、考えられないことのように感じられるが、実際、そうなのだから仕方ないことである。現実の大和三山を実見し、登ってみると判ることだが、誰がこんな造作をしたのか、訝しく思う。
○しかし、それがこの地に東遷して来た人々であることは間違いあるまい。そのリーダーは神武天皇と申し上げる。神武天皇は霧島山の麓に誕生なさったと言う。現在でも、日向国には神武天皇御誕生の地に、狭野神社が鎮座まします。住所は、宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田117。
○面白いことに、大和三山の畝傍山の麓に鎮座ましますのが橿原神宮である。住所は奈良県橿原市久米町934。近くの大久保町には神武天皇の御陵である畝傍御陵が存在する。
○どういうことかと言うと、神武天皇は邪馬台国三山の一つ、霧島山の麓に御誕生なされた。それを顕彰する社が狭野神社である。そして、神武天皇は大和三山の一つ、畝傍山の麓に眠っている。それが橿原神宮であり、畝傍御陵である。
○大和国がそういうふうに造作されていることに誰も注目しない。まして、大和国一宮である大神神社の御祭神が大物主大神であることは理解するけれども、大和国一宮がどうして出雲神なのかに言及しようともしない。不思議な話である。
●歴史を紐解くとは、そういうことを意味する。大和国一宮がどうして出雲神なのか。大物主大神は本当に出雲国から訪れた神なのか。三輪山の本質は何か。そういうことを一つ一つ、丁寧に考えて行く必要がある。
●そうすれば、出雲神の故郷が見えてくる。詳しくは、以下を参照されたい。
・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『出雲神の故郷』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40438875.html
●出雲神の故郷が出雲国では無くて、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であることは実に興味深い。そんなことを誰が想像出来たであろうか。なかなか歴史は面白い。
●現在、三輪山は鬱蒼とした自然林で、何の眺望も無い。したがって、現在の三輪山からは大和国一宮である大神神社の本質を見ることは出来ない。しかし、大神神社が出雲神である以上、三輪山が磐座信仰の舞台であることは間違いない。
●おそらく、古代には麓からその磐座が見えていたものと想像される。そういう意味では、大神神社はその本質を完全に見失っていると言うしかない。本当は、三輪山から眺望する大和三山が大和国の象徴であったし、最高の見物だったのである。
◎私たちは、大和国でもっとも神聖な場所である三輪山が自然林であることを希求して止まない。しかし、三輪山の本質は磐座信仰なのである。それが眺望されない三輪山の威力は半減する。私にはそう思えてならない。
○その大和三山と対極にあるのが神代三山陵の先坣僑位だと言うしかない。再度整理する意味で、先に現在、神代三山陵に比定されているところから案内したい。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○真実の神代三山陵は次のように案内される。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○どうしてそうなるかは、話が長い。以下のブログで詳細に検証しているので、そちらを参照されたい。
・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l&p=1
●その神代三山陵に先坣僑位が存在するのではないかと思い始めたのは2010年頃のことであった。先坣僑位とは、異郷の地で祖先の御霊を齋き祀るところを指す。故郷を離れて生活する古代人はそういうふうにして自らの祖先霊を祀ったのである。
●だから、もし神代三山陵の先坣僑位が存在すれば、それは真実の神代三山陵解明に大いに役立つはずである。何故なら、神代三山陵の先坣僑位は、当然、真実の神代三山陵と同じ形態をしているはずだからである。
●2007年頃には真実の神代三山陵を発見していた。それは江戸時代の国学者、白尾國柱の研究を継承した結果に過ぎない。しかし、それが本当に真実の神代三山陵であるかを検証することは不可能だろうと考えていた。何故なら、神代三山陵は神話時代の話なのであるから。
●ところが近畿地方に神代三山陵の先坣僑位が存在することを知って驚いた。もしそれが本当に神代三山陵の先坣僑位であるなら、真実の神代三山陵をそっくりそのまま模写しているはずである。それなら、神代三山陵の先坣僑位によって、真実の神代三山陵を検証することが出来るはずである。そういうふうに考えた。
●その神代三山陵の先坣僑位は次のように案内される。
・可愛山陵=吉野山:奈良県吉野郡吉野町及び天川村
・高屋山陵=高野山:和歌山県伊都郡高野町高野山
・吾平山陵=熊野本宮:和歌山県田辺市本宮町本宮
この神代三山陵の先坣僑位の発見は2009年頃だったと思う。
・書庫「熊野から天川村・吉野・国中への旅」:17個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1177040.html?m=l&p=1
それを最終的に検証したのが2011年の奥駈道を歩く旅であった。
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:33個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201609.html?m=l&p=1
◎真実の神代三山陵が実にささやかな存在であるのに対し、神代三山陵の先坣僑位があまりに巨大で、立派なのに驚く。神代三山陵の先坣僑位は現在、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されていると言うくらいなのだから。
◎ただ、日本人としては、それが本来どういうものであったかを理解しておく必要がある。神代三山陵の先坣僑位が世界文化遺産なら、真実の神代三山陵にどれくらいの価値があるか。誰でも判ることである。誰もそういうことに言及しないのが不思議でならない。
◎もっとも、熊野本宮はそのご神体を見失っているし、高野山はその本質が何であったかさえ不明としているし、吉野山・大峰山に至っては、信仰そのものを見失っていると言うしかない。
◎邪馬台国三山と神代三山陵の両方が、近畿地方に勧請され、復元されている現実に、ただ驚くしかない。その邪馬台国三山が大和三山として、あまりに矮小化されているのに愕然とさせられるし、逆に、神代三山陵の先坣僑位が恐ろしく拡大発展していることに驚異を抱かずにはいられない。それが古代人の意思であることを見逃してはなるまい。