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温庭筠:瑤瑟怨

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○前回、劉禹錫の「瀟湘神二首」を紹介した。その中に、
    楚客欲聽瑤瑟怨    楚客は聽かんと欲す、瑤瑟の怨みを、
    瀟湘深夜月明時    瀟湘の深夜、月明かりの時に。
の一節があったが、その「瑤瑟怨」を見事に詠い上げているのが、温庭筠の「瑤瑟怨」詩である。

  【原文】
      瑤瑟怨  温庭筠
    冰簟銀床夢不成
    碧天如水夜雲輕
    雁聲遠向瀟湘去
    十二樓中月自明

  【書き下し文】
      瑤瑟の怨み  温庭筠
    冰簟、銀床の夢は成らず、
    碧天は水の如く、夜雲は輕し。
    雁聲は遠か向に、瀟湘へ去り、
    十二樓中、月自ら明なり。

  【我が儘勝手な私訳】
    煌々と照る満月の月光の中、清涼な竹の蓆に座って、なかなか眠ることができない。
    空を見上げると、洞庭湖の湖面のように滑らかで、夜、雲が渡って行くのが見える。
    雁の音が洞庭湖の彼方から聞こえて来て、南の方角、瀟水や湘水の方へ消えて行く。
    仙人が棲む高楼を、満月が何処よりも明るく照らしてくれるのが、何とも侘びしい。

○題にある「瑤瑟」とは、玉飾りのある立派な楽器、「瑟」を意味する。「瑟」については、中国の検索エンジン百度の百度百科に、
   瑟,中国古代的拨弦乐器。形状似琴,有25根弦,弦的粗细不同。每弦瑟有一柱。按五声音阶定弦。
  最早的瑟有五十弦,故又称“五十弦”。另指古水名,指今河南省罗山县的小黄河。
とあるから、『二十五弦の大きな琴』の意になろう。

○「詩経」《国風·周南》に、
  窈窕淑女,琴瑟友之。
とあるから、立派な女性の嗜みの一つが「瑟」を弾じることであったらしい。

○また、洞庭湖には湘水の神、湘君の奏でる瑟の音が何処からともなく聞こえてくると言う言い伝えも存在する。これは別に、湘妃が鼓する瑶瑟だと言う説もある。(宋:陆游《月中过蜻蜓浦》诗)

○ただ、中国では温庭筠の「瑤瑟怨」詩は、闺怨诗として評価されているらしい。中国の検索エンジン百度の百度百科にも、「瑶瑟怨」の項目があって、次のように載せる。

      瑶瑟怨
  【百科名片】
   《瑶瑟怨》是唐代诗人温庭筠创作的一首七绝,是唐诗中脍炙人口的名篇之一。此诗描绘的是抒情主
  人公寂寞难眠而鼓瑟听瑟的各种感受,以表达别离之怨。全诗像是几种衔接紧密的写景镜头,表现了女
  主人公的心理活动和思想感情。冰簟、银床、碧空、明月、轻云、雁声、潇湘和月光笼罩下的玉楼,组
  成了一组离人幽怨的秋夜图,渲染了一种和主人公离怨情绪统一和谐的情调和氛围。虽没有正面描写女
  主人公清夜独自弹瑟传达怨情,而幽怨之情表现得很充分。作品含蓄温婉,诗意浓郁,耐人寻味。
    作品名称: 《瑶瑟怨》   创作年代: 晚唐   作品出处: 《全唐诗》
    文学体裁: 七言绝句   作者: 温庭筠   题材: 闺怨诗
詳しくは、以下を参照されたい。
  http://baike.baidu.com/view/383832.htm

○この「瑤瑟怨」詩一つを取っても、温庭筠が如何に優れた詩人であるかが判る。中国の検索エンジン百度の百度百科が載せる温庭筠は、次の通り。

      温庭筠
  【百科名片】
   温庭筠(约812—866)唐代诗人、词人。本名岐,字飞卿,太原祁(今山西祁县东南)人。富有天才,
  文思敏捷,每入试,押官韵,八叉手而成八韵,所以也有“温八叉”之称。然恃才不羁,又好讥刺权贵,
  多犯忌讳,取憎于时,故屡举进士不第,长被贬抑,终生不得志。官终国子助教。精通音律。工诗,与
  李商隐齐名,时称“温李”。其诗辞藻华丽,秾艳精致,内容多写闺情。其词艺术成就在晚唐诸词人之上,
  为“花间派”首要词人,对词的发展影响较大。在词史上,与韦庄齐名,并称“温韦”。存词七十余首。
  后人辑有《温飞卿集》及《金奁集》。
詳しくは、以下を参照されたい。
  http://baike.baidu.com/subview/10577/5062415.htm

○日本のウィキペディアフリー百科事典にも、温庭筠の項目があって、次のように載せる。

      温庭イン
   温庭筠(おん ていいん、812年 - ?)は、中国・唐の詩人。太原祁県(山西省)の人。元の名は岐
  (き)、字は飛卿(ひけい)。
   晩唐期を代表する詩人の一人で、李商隠とともに「温李」と呼ばれる。しかし試験場で隣席の者の
  ために詩を作ってやったり、遊里を飲み歩いて警官と喧嘩をしたりするなど、軽率な行為が多く、科
  挙には及第出来なかった。宰相・令狐綯(れいこ とう)の家に寄食したが、令狐綯を馬鹿にしたの
  で追い出された。大中13年(859年)頃、特に召し出されて試験を受けたが、長安で任官を待つ間、
  微行していた宣宗に会い、天子と知らずにからかったので、随県(湖北省)の尉に流された。襄陽
  (湖北省)刺史の徐商に招かれ、幕下に入ったこともあるが、満足せず、辞職して江東の地方を放浪
  し、最期は零落して死んだ。
   現代には、『温飛卿詩集』九巻が残っている。
何ともひどい内容であることに驚く。これが全文である。全く詩人について触れていない。と言うか、これは非難中傷に近い。大詩人がこのように日本で紹介されているのが何とも悲しい。早急にどうにかして欲しいものである。

○温庭筠の「瑤瑟怨」詩は、やはり、洞庭湖を詠った詩として評価するのが正しいのではないか。閨怨詩とするには、あまりに勿体ない。

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