○前回、「三国名勝図会」が載せる『霧島神社総数諸説』を案内した。 「三国名勝図会」は現在残っていない寺社なども数多く載せているし、また、特に廃仏毀釈によって失われた嘗ての寺院なども多くを記録している。
○霧島山高千穂峰のことを書き続けているが、霧島六所権現が気になって仕方が無い。しばらく、「三国名勝図会」が記録する霧島六所権現を追い掛けてみたい。今回案内するのは、西御在所霧島六所権現社である。現在の霧島神宮のことである。
西御在所霧島六所権現社(地頭館より丑方、二里二十町余)
田口村霧島山西面の半腹にあり。社西南に向ふ。祭神正殿四座、瓊々杵尊・彦火々出見尊・葺不合
尊・神武天皇(以上四神各一坐とす、正面にあり、)東殿一坐(正殿の左掖にあり、)國常立尊・高
皇産霊尊・伊弉諾尊・天照大神(以上の四神、合して一坐とす、)西殿一坐(正殿の右掖にあり、)
大已貴命・國狭槌尊・惶根尊・神皇産霊尊・伊弉冉尊・素戔嗚尊・正哉吾勝尊(以上七神合して一坐
とす、)是十五体の神像を分ち、六坐として、六所権現とす。(中略)
當社別当華林寺の記に云、欽明天皇の時、慶胤上人なる者、此山を開闢し、當社及び梵刹を創建す。
其後山上火を発し、寺社焼亡して、多くの星霜を歴たりしに、村上天皇の御宇に、性空上人此山に登
て、法華経を持誦する事若干年、當社を建立し、六所権現と号す。六観音を感見して其本地とせり。
初め上古の神社は、今の社地より東一里十町許に當る、當山の巓矛峯と火常峯との中間、背門丘にあ
りしが、天暦中、性空背門丘より今の地に神社を遷し、併せて別当寺を新建す。性空は天台宗の徒な
り。故に別当寺も台宗にて、性空より第二十一代住持道惠に至て、凡二百八十年、台宗相承せしが、
文暦元年甲午、十二月廿八日、山上又火を発して神社寺院及び什寶文書等悉く焼失す。其後二百五十
年許の間は、神社寺院共に廃して唯仮宮あり。其仮宮を待世行祠と云。下に見ゆ。文明十六年、甲辰、
圓室公、真言宗の徒、兼慶をして廟務を掌らしむ。