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霧島山華林寺東光坊錫杖院

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○西御在所霧島六所権現社の別当寺は、霧島山錫杖院華林寺で、そのことについては、以前案内済みである。
  ・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『霧島山錫杖院華林寺』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40711579.html

○それに対して、霧島東御在所両所権現社の別当寺は、霧島山華林寺東光坊錫杖院と言う。何とも紛らわしい寺名となっている。今回案内するのは、その霧島山華林寺東光坊錫杖院である。もちろん、「三国名勝図会」が載せる霧島山華林寺東光坊錫杖院である。

      霧島山華林寺東光坊錫杖院
   蒲牟田村、東御在所両所権現社の左にあり。即其社の別当職なり。本府真言宗大乗院の末にして、
  本尊千手観音大士(座像、長二尺、大佛左近法眼作、貫明公御安置)開山性空上人。中興開山圓政法
  印。寺記に曰、當寺は康保三年性空上人創建。當寺に在て苦行し、神異一ならず。其後天台の徒、
  世々住持せり。天永三年壬辰二月三日、文暦元年甲午十二月廿八日、霧島山火起りて、寺廟共に焼亡
  し、當寺廃すること二百五十年なりしに、圓室公の時、文明十八年丙午の歳に至り、廟宇を改造し、
  當寺を中興し、真言密宗の徒、圓政法印を住持とす。是より真言宗に改まる。其後伊東氏當邑を奪ひ、
  寺務断絶にて、伊東氏より池郷民部といへる修験を置て、香火を掌らしむ。然るに貫明公の御時、當
  邑を復し玉ひ、伊東氏を御征伐の頃、池郷民部、叛を謀り、當所を奪はんとす。天正六年、松齢公、
  久留重辰、赤冢真重、宮田政次に命じて民部を誅戮し玉ひ、社司並僧徒、社務を掌ることを得たりと
  南浦文集及び宮田政次が裔、當邑宮田某が譜牒に録せり。其後相承して真言宗なり。享保の年、霧島
  山又大に燃え、此時も寺廟其火災に罹れり。(享保の山火前條神徳院に詳なり。)寺禄百三十四石余
  あり。二王門、本寺より卯方八町許にあり。東霧島山四字の額を掲ぐ。(醐峯寓位僧正有惟書とあり。)
  當寺の東南八町許に御池あり。當寺の境内に属す。(御池は前章に詳なり。)當寺霧島嶽の山腹に倚
  て、前は御池に臨み、地形高敞にして、遠近の邑里山野一望に帰し、景色絶勝にして、本藩希有の霊
  刹なり。當寺の後より、霧島山矛峯へ登る路あり。此路を取る者は必ず東御在所権現へ参詣して登攀
  するとかや。

○霧島神社創設が欽明天皇の御代で、慶胤上人に拠るものだと言うことを忘れてはなるまい。おおよそ六世紀の話である。もちろん、それが霧島山華林寺の開山となっている。ところが上記には開山性空上人とある。性空は中興の祖とする霧島山錫杖院華林寺の話の方が理に適っている。

○寺名としては、霧島山華林寺東光坊錫杖院の方がすっきりしている。霧島神宮の別当寺を霧島山錫杖院華林寺とする方が何か抵抗がある。もう少しいろいろ見てみないとはっきりしない。

○詰まるところ、霧島山の山号を持つ寺が華林寺であることだけは間違いなさそうである。

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