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狭野大権現社

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○霧島山高千穂峰のことを書き続けているが、霧島六所権現が気になって仕方が無い。しばらく、「三国名勝図会」が記録する霧島六所権現を追い掛けてみたい。そう考え、これまで、西御在所霧島六所権現社から霧島東御在所両所権現社と続けてきた。今回案内するのは、狭野大権現社である。

      狭野大権現社(地頭館より午未の方、一里十二町)
   蒲牟田村、狭野にあり。狭野、或は佐野と書す。即此処の地名にて、俗に佐野原といふ。祭神瓊々
  杵尊、彦火々出見尊、葺不合尊、木花開耶姫、豊玉姫、玉依姫の六座なる故、霧島六所権現とも号す。
  霧島権現六社の一なり。東掖宮、神武天皇、吾平津媛を祭り、西掖宮、経津主命、武甕槌命(以上各
  神像を安す、)を祭り、四所宮、大巳貴命一座、伊弉諾尊、菊媛姫、伊弉冉尊の三神一座、罔象女一
  座、大山祇一座祭る。(此外にも支祠多けれども今略す。)狭野の地は、神武天皇降誕の霊蹟なり。
  因て當社を創建ありといふ。神武降誕の神跡は舊蹟の部、其條下に詳なり。當社本宮、瓊々杵尊を奉
  祀して、第一座とす。其他の五座は同殿に祭られしと見えたれば、是神武の御時に、其皇曾祖王父た
  る、瓊々杵尊を崇奉し玉ひしなるべし。右は天子皇宮に於て、祖宗の神を親察し玉ふは、所謂共殿同
  床の義にて、今の俗間、祖先の神位を家内に祀るがごとし。神武を東宮に祭るは、即此地に降臨の故
  にて、蓋し後の従祀なり。霧島権現六社の内、當社を除て外五社には、神武を別宮に祭れることなき
  を以て知べし。社傳には、孝昭天皇の御宇に、當社を創建し玉へりと記しぬ。社記曰、文暦元年甲午
  十二月廿八日、霧島山大火、(社記に、山上火けし事を皆神火と記せり。當初の諺に依れり。)當社
  並に別当寺、焼亡に及ぶ。於是當社、及び別当寺を、同郡高城邑、東霧島勅詔院に遷す。慶長十七年
  寺社共に舊地に復る。即ち今の地なり。後又享保の山火に厄せらる。其詳なるは、別当神徳院の條に
  記す。當社の辰巳二十二町許、狭野方域に上古當社のありし跡あり。土俗是を権現が洞といふ。當社
  は霧島山東北の麓にて、原野の間にあり。社地林叢森然たり。例祭二月初酉、九月廿九日、十一月中
  酉日。當邑の総鎮守なり。社司押領司氏、別当を神徳院といふ。

○霧島東御在所両所権現社から狭野大権現社は近い。車で6劼曚匹靴ない。行政区も同じ高原町である。霧島山高千穂峯へ登る登山口は、霧島東御在所両所権現社からも狭野大権現社からも存在する。

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