○2008年3月に、吉野山が気になって、出掛けて来た。その時のことについては、以下のブログに書いている。
・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者か院宍般邉行』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/3756003.html
・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者か押宍般邉行2』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/3771513.html
・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者か魁宍般邉行3』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/3810863.html
・書庫「吉野山の正体」:ブログ『吉野山は何者か粥宍般邉行4』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/3820417.html
○2009年3月28日にも、奈良県吉野郡天川村へ出掛け、大峰山へ参拝してきた。
・書庫「熊野から天川村・吉野・国中への旅」:ブログ『大峰山山上ケ岳に登る』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/25255167.html
○2011年4月29日から5月2日に掛けて、大峯奥駈道を吉野から弥山まで歩き、天河大辨財天社へと下山した。大峯奥駈道の半分にも満たない距離であったが、それでも山中に3泊した。残りも機会を見付けて走破したいと思っている。その時の様子は、以下のブログに詳しく書いている。
・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」:33個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1201609.html?m=l&p=1
○このように吉野山や大峰山を何度も訪れるのには、もちろん、理由がある。それは吉野山が何者なのかと言うことである。吉野山は、およそ、尋常の山ではない。その契機となったのは「日本書紀」が記す持統天皇の吉野御幸であった。持統天皇はその在職中の9年間に31回も吉野山を訪れている。この数字は異常と言うしかない。吉野山は何者か。それを追及したのが以下のブログである。
・書庫「吉野山の正体」:40個のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/389714.html?m=l&p=1
○吉野山を訪問した時には、すでに、おおよそ、吉野山がどういうものであるかを突き止めていた。そういうものを確認することが吉野山参詣であった。現在、私たちが吉野山として訪れるところは、本当は、吉野山の入り口に過ぎない。つまり、吉野山とは山上ケ岳から弥山までを言い、金峯山寺蔵王堂あたりは、吉野山の山下に該当するのである。そういうことは大峯奥駈道を歩いてみない限り、理解されない。
●百人一首に、次の和歌がある。
もろともに あはれと思へ 山桜(やまざくら)
花より外(ほか)に 知る人もなし
前大僧正行尊(66番) 『金葉集』雑・556
●行尊の「もろともにあはれと思へ山桜」和歌が名歌であることは間違いない。だから、藤原定家は小倉百人一首にこの和歌を採用した。ただ、この和歌の真意を理解することは容易ではない。一般には次のように案内されている。
併笋おまえをなつかしく思うように)おまえも私をなつかしいものと思ってくれ、山桜よ。こ
んな山奥ではおまえ以外に心持ちのわかる人はいないのだ。【旺文社「古語辞典」】
△互いに懐かしく思いあおう、山桜よ。桜花よりほかに(私の心を)分かってくれる人もいない
ことだ。【第一学習社「国語便覧」】
おまえのことをしみじみと思う私と同じように、おまえも私のことを懐かしく思ってくれ、山桜
よ。この山奥には、おまえよりほかに、私の心を知る人とていないのだ。【学研「新古語辞典」】
せ笋おまえをしみじみなつかしく思うのと同じように、おまえも私のことをなつかしいと思って
くれ、山桜よ。この山奥では、私にはおまえ以外に知り合いもいないのだ。【福武書店「古語辞典」】
●このような案内で紹介される行尊の「もろともにあはれと思へ山桜」和歌も気の毒と言うか、可哀そうでならない。行尊の「もろともにあはれと思へ山桜」和歌は、そんなつまらない作品ではない。行尊の「もろともにあはれと思へ山桜」和歌は悟りの和歌なのである。それがこういう粗末な扱いをされては何とも切ない。
●これも、話が長くなるので、以下を参照していただくしかない。
・書庫「吉野紀行」:ブログ『もろともにあはれと思へ』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/26911366.html
・書庫「吉野紀行」:ブログ『花よりほかにしる人もなし』
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/27001043.html
●吉野山は修験道の聖地なのである。吉野山では此処で役の行者が蔵王権現を感得したと言うことになっている。しかし、歴史を辿ると、蔵王権現の故郷は鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島だと言うしかない。その証拠に、吉野山三山と言うか、大峰三山を吉野山で説明することは誰にもできない。
山上ケ岳(1719叩
稲村ケ岳(1725叩
大天井ケ岳(1438叩
●ところが鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島では、それがきれいに説明できる。それは硫黄島が蔵王権現の故郷であるからに他ならない。
硫黄岳(703叩
稲村岳(236叩
矢筈岳(313叩
◎古代は宗教の時代なのである。そういうふうに、宗教を理解しない限り、歴史も文学も理解できない。そういうことを教えてくれるのが行尊の「もろともにあはれと思へ山桜」和歌である。
◎この和歌を完全理解しようと思えば、大峯奥駈道の小笹の宿を訪ねるしかない。嘗ては多くの修験者が修行していたところである。そういう修行の中から誕生したのが行尊の「もろともにあはれと思へ山桜」和歌である。
◎現代の私たちは、何でも机上で理解し、解決できると勘違いしている。しかし、もともと仏教は机上の空論を忌んで来た経緯がある。それが修験道である。日本へ伝来した最初の仏教が修験道であることを見逃してはなるまい。それが卑弥呼の鬼道であることも。