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卑弥呼の肖像

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○考古学者先生は「魏志倭人伝」に拠らないで卑弥呼の肖像を描こうと懸命になっていらっしゃる。しかし、どう考えたところで、卑弥呼は「魏志倭人伝」に書かれた史実以上でも以下でも無い。卑弥呼の肖像を描こうとすれば、畢竟、「魏志倭人伝」に頼るしかないわけである。

○その「魏志倭人伝」にしたところで、字数わずか1984字でしかない。それ程詳しく卑弥呼の肖像が描かれているわけでも無い。ただ、三世紀の倭国を表現するものはこれ以外に無いわけであるから、どんなに貴重な情報であるかが判る。

○最初に、魏国が認識する倭国三十国について考えておきたい。「魏志倭人伝」でもっとも大事なことは、この倭国三十国であることに誰も注目しない。「魏志倭人伝」を丁寧に読むと判るのだが、「魏志倭人伝」の主題がこの倭国三十国にあることは間違いない。だから、「魏志倭人伝」を通じて、編者、陳寿がもっとも述べたいことが倭国三十国であることが判る。そのために、陳寿は史家として、最大且つ最高の努力と技術を駆使していると言えよう。

○もっとも、そのせいで、後世の人々は「魏志倭人伝」に散々悩まされている。「三国志(魏志倭人伝を含む史書)」が成立して千七百年も経つと言うのに、これまで、「魏志倭人伝」を読み解いた人は誰も居ない。それは「魏志倭人伝」の主題を誰も明らかにしていないことから判る。

○最初に「魏志倭人伝」を読み解いた書物は「完読魏志倭人伝」(2010年・高城書房刊)だと言うしかない。これに初めて倭国三十国が次のように案内されている。
  【渡海三国】
    ・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
  【北九州四国】
    ・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
  【中九州二十国】
    ・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
    ・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
    ・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
  【南九州三国】
    ・投馬国・邪馬台国・狗奴国

○つまり、卑弥呼が南九州=日向国の住人であることが初めて明らかにされたわけである。言葉を変えると薩摩おごじょとなる。こういうふうに表現するとふざけていると勘違いなさるかも知れない。しかし、卑弥呼が薩摩おごじょであることの意義は大きい。

○薩摩国がどうして薩摩と称するのか。寡聞にしてそう言う話を聞いたことがない。それで仕方なく自分で薩摩国はどうして薩摩と言うのか、考えるしかない。そう思って書いたのが以下のブログである。
  ・書庫「鹿児島を彩る人々」:ブログ『白尾國柱と薩摩國』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/28903238.html

○薩摩国は、『諸菩薩摩訶薩』の国の謂いだと言うことが判る。意味は、『もろもろの真にさとりを求める人々』の国だと言うことになる。こんな立派な国名は無い。薩摩国が仏教立国を目指した国であることが判る。後世に、卑弥呼の国がこういうふうに名を変えていることの意義は大きい。それが卑弥呼が薩摩おごじょだと言うことである。

○白尾國柱は江戸時代の国学者だが、彼に学ぶことは多い。薩摩国名も彼の研究を引き継いだものだし、神代三山陵の研究も彼の研究がもとになっている。白尾國柱の「麑藩名勝考」は、名著である。鹿児島のことは彼に聞くに若くはない。

○閑話休題、卑弥呼の肖像を描くには、やはり「魏志倭人伝」に拠るしかない。参考になるのは、以下の記述ではないか。
  ・其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子為王。名曰卑彌呼。
  事鬼道、能惑眾。年已長大、無夫婿。有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。
  以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
  ・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
  其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、
  次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。
  ・正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯俊等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、並齎詔賜金、帛、錦罽、
  刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。
  ・其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹、
  木弣、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
  ・其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
  ・其八年、太守王頎到官。
  ・倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊狀。
  遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢、拜假難升米為檄告喩之。
  ・卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步、徇葬者奴婢百餘人。
  ・復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。

○「魏志倭人伝」1984字の中に、卑弥呼の名は5回出現する。その5回の記録は、全て上記の文中にある。つまり、「魏志倭人伝」の中で、卑弥呼の記述はせいぜいこれくらいしかない。これから卑弥呼の肖像を描き出すのは大変である。

○ただ、「魏志倭人伝」では別に、卑弥呼を女王として12回案内している。その卑弥呼と女王の表現の違いは、はっきりしていて、個人的なものは全て卑弥呼の名で表現されている。

○だから、卑弥呼の個人情報は、ほとんど上記にあると言って良い。これが卑弥呼の情報のほとんどである。つまり、
  “槎鏝討女性である。  ⊆拉和羚颪僚Δ任△襦  O噌饂綾醜颪僚Δ任△襦
  さ監擦鮖箸垢襦  ス睥陲任△襦  ζ反箸任△襦  Ч颪歪錣治めている。
  ┣Δ箸覆蝓△曚箸鵑秒も見ていない。  婢千人が仕えている。  身辺を一男子が見ている。
  宮室樓觀に居る。  城柵の中に居る。  武器を持った守衛に守られている。
  景初二年(238年)六月に、帯方郡を通じて魏国へ使いを出した。
  親魏倭王卑彌呼に制詔された。  粟擬四年(243年)、再び魏国へ使いを出した。
  雲擬H年(247年)、三度目の魏国への使いを出した。  俺蘚枹△帆茲い砲覆辰拭
  拡槎鏝討了燹W揺奇永發倫呂鮑遒蝓奴婢百餘人を徇葬。  竿榕集討僚―繚个鮟Δ箸靴拭
くらいが卑弥呼の肖像を描く材料ではないか。

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