○武蔵坊弁慶は何者か。ウィキペディアフリー百科事典は、次のように案内する。
武蔵坊弁慶
武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい 武藏坊辨慶、? - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日))は、平安
時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。
五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無
双の荒法師として名高い。『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。な
お、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。和歌山県田辺市では、毎年1
0月第1金曜・土曜日に弁慶誕生の地に因んだ、弁慶まつりを開催している。
元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11
月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨
慶」と記されているだけであり、『平家物語』では義経郎党として名があるのみで、その生涯について
はほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の
世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。
【誕生】
熊野別当湛増(『義経記』では「弁しょう」、『弁慶物語』では弁心)が、二位大納言の姫を強奪し
て生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体
つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そ
うとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。
【牛若との出会い】
鬼若は比叡山に入れられるが、勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して
武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも乱暴を繰り返して、播磨の書写山
圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。
やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立てる。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯
刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋(『義経記』では清水観
音境内)で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、
太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参
してそれ以来義経の家来となった。
【実像】
以上は、『義経記』を中心とした後世の物語を基にしたもので、史実の弁慶については、『吾妻
鏡』文治元年の条で都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではな
い。史料である『吾妻鏡』や『玉葉』によると、都落ちの後、周辺に潜伏する義経を比叡山の悪僧
(僧兵)らが庇護しており、その中の俊章(しゅんしょう)という僧は義経を奥州まで案内したとさ
れる。また文治5年(1189年)1月13日には、義経が京都に還る意志を書いた手紙を持った比叡山の悪
僧・千光房七郎が北条時定に捕縛されている。この千光房は前年8月に悪徒浪人を集めて悪行を働くと
いうので、お尋ね者になっていた僧侶である。これら義経を庇護した複数の比叡山悪僧の所業が集め
られ、誇張されていって伝説上の武蔵坊弁慶が構成されたとみられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9D%8A%E5%BC%81%E6%85%B6
○引用が長くなったが、一般的な弁慶像は、おおよそこのようなものではないか。この弁慶案内文を読むと、熊野別当・義経・比叡山・圓教寺・清水観音などが武藏房辯慶を彩る背景となっていることが判る。
○長崎県西海市に、江島と言う島が存在する。ウィキペディアフリー百科事典が案内する江島 (長崎県)は、次の通り。
江島 (長崎県)
江島(えのしま)は、長崎県の西彼杵半島西方沖にある島。全島が西海市(2005年3月31日までは西
彼杵郡崎戸町)に属する。本項では同区域にかつて存在した西彼杵郡江島村(えのしまそん)につい
ても述べる。
【地理・概要】
・面積 - 約2.60km2
・人口 - 169人(2010年国勢調査)
・西彼杵半島と五島列島の間の五島灘のほぼ中間に浮かぶ離島。低平な溶岩台地からなる。
・最高峰は島の北部にある遠見岳(標高122m)。山頂には一等三角点が設置されている。
【伝説】
・島の名前は平家の落人が当島に住み着いた際に相模国の江ノ島に似ているとして名付けたとの
伝承がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B3%B6_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C)
○その江島に知人が居て、彼の名には辯字が付いている。これは「通字(とおりじ)」あるいは「系字(けいじ)」と言って、その家に代々継承されている名前の付け方である。知人の家は辯才天信仰なので、辯字を「通字(とおりじ)」としていると言う。
○知人の話を聞いて、武藏房辯慶の話を思い出した。おそらく武藏房辯慶は辯才天信仰の申し子なのであろう。だから辯慶の名がある。辯才天信仰と観音信仰とは密接な関係がある。そう考えると、辯慶の背景となっている熊野別当・義経・比叡山・圓教寺・清水観音などがよく理解される。
○その辯才天信仰の故郷が硫黄島である。長崎の江島の伝説にある、
・島の名前は平家の落人が当島に住み着いた際に相模国の江ノ島に似ているとして名付けたとの伝承
がある。
と言うのは、完全な誤りであることが判る。江島は日本中に存在し、その多くは辯才天信仰に基づくものである。長崎は鹿児島に近い。そういう意味では、相模国の江島より長崎の江島の方が古いことは確かだろう。とんでもない伝説である。
武蔵坊弁慶
武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい 武藏坊辨慶、? - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日))は、平安
時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。
五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無
双の荒法師として名高い。『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。な
お、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。和歌山県田辺市では、毎年1
0月第1金曜・土曜日に弁慶誕生の地に因んだ、弁慶まつりを開催している。
元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11
月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨
慶」と記されているだけであり、『平家物語』では義経郎党として名があるのみで、その生涯について
はほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の
世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。
【誕生】
熊野別当湛増(『義経記』では「弁しょう」、『弁慶物語』では弁心)が、二位大納言の姫を強奪し
て生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体
つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そ
うとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。
【牛若との出会い】
鬼若は比叡山に入れられるが、勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して
武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも乱暴を繰り返して、播磨の書写山
圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。
やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立てる。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯
刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋(『義経記』では清水観
音境内)で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、
太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参
してそれ以来義経の家来となった。
【実像】
以上は、『義経記』を中心とした後世の物語を基にしたもので、史実の弁慶については、『吾妻
鏡』文治元年の条で都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではな
い。史料である『吾妻鏡』や『玉葉』によると、都落ちの後、周辺に潜伏する義経を比叡山の悪僧
(僧兵)らが庇護しており、その中の俊章(しゅんしょう)という僧は義経を奥州まで案内したとさ
れる。また文治5年(1189年)1月13日には、義経が京都に還る意志を書いた手紙を持った比叡山の悪
僧・千光房七郎が北条時定に捕縛されている。この千光房は前年8月に悪徒浪人を集めて悪行を働くと
いうので、お尋ね者になっていた僧侶である。これら義経を庇護した複数の比叡山悪僧の所業が集め
られ、誇張されていって伝説上の武蔵坊弁慶が構成されたとみられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9D%8A%E5%BC%81%E6%85%B6
○引用が長くなったが、一般的な弁慶像は、おおよそこのようなものではないか。この弁慶案内文を読むと、熊野別当・義経・比叡山・圓教寺・清水観音などが武藏房辯慶を彩る背景となっていることが判る。
○長崎県西海市に、江島と言う島が存在する。ウィキペディアフリー百科事典が案内する江島 (長崎県)は、次の通り。
江島 (長崎県)
江島(えのしま)は、長崎県の西彼杵半島西方沖にある島。全島が西海市(2005年3月31日までは西
彼杵郡崎戸町)に属する。本項では同区域にかつて存在した西彼杵郡江島村(えのしまそん)につい
ても述べる。
【地理・概要】
・面積 - 約2.60km2
・人口 - 169人(2010年国勢調査)
・西彼杵半島と五島列島の間の五島灘のほぼ中間に浮かぶ離島。低平な溶岩台地からなる。
・最高峰は島の北部にある遠見岳(標高122m)。山頂には一等三角点が設置されている。
【伝説】
・島の名前は平家の落人が当島に住み着いた際に相模国の江ノ島に似ているとして名付けたとの
伝承がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B3%B6_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C)
○その江島に知人が居て、彼の名には辯字が付いている。これは「通字(とおりじ)」あるいは「系字(けいじ)」と言って、その家に代々継承されている名前の付け方である。知人の家は辯才天信仰なので、辯字を「通字(とおりじ)」としていると言う。
○知人の話を聞いて、武藏房辯慶の話を思い出した。おそらく武藏房辯慶は辯才天信仰の申し子なのであろう。だから辯慶の名がある。辯才天信仰と観音信仰とは密接な関係がある。そう考えると、辯慶の背景となっている熊野別当・義経・比叡山・圓教寺・清水観音などがよく理解される。
○その辯才天信仰の故郷が硫黄島である。長崎の江島の伝説にある、
・島の名前は平家の落人が当島に住み着いた際に相模国の江ノ島に似ているとして名付けたとの伝承
がある。
と言うのは、完全な誤りであることが判る。江島は日本中に存在し、その多くは辯才天信仰に基づくものである。長崎は鹿児島に近い。そういう意味では、相模国の江島より長崎の江島の方が古いことは確かだろう。とんでもない伝説である。