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大和三山の正しい眺め方の裏側

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○前回、ブログ『大和三山の正しい眺め方』を書き、大和三山は三輪山山頂から眺めるのが正式だとした。このことは、日向国ではどうなるのか。そういう話を含めて、今回検討するのは『大和三山の正しい眺め方の裏側』と言う話になる。

○一捻りどころか二捻りも三捻りもした話だが、要するに、逆から眺めると、大和三山の正しい眺め方はどうなるのかと言う話である。実は、そういう風景を「古事記」や「日本書紀」がしっかり記録しているからここで考えるわけである。

●それはどういう風景か。まずは、その記録を紹介することから始めたい。「古事記」が案内するその記録は、次の通り。

  此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、
  朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。
  故、此処は甚吉き地。

●この詔がどういうものか、ご存じだろうか。天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が地上に降り立ちなさった時、高千穂峰山頂で発しなさった人間最初の地上での御言葉がこの発言なのである。だから、この御言葉は、尋常の言葉で無いことは明らかだろう。

●もちろん、これは神話の世界の話である。だから、神話作家がこの御言葉にどれ程多大な意味を込めて表現しているかは容易に察しが付く。ただ、その風景がどんなものであるかは、日向国人でないと理解することは難しいのではないか。

●この御言葉は、それほど重大な言葉である割には、研究者間でほとんど問題視されない。と言うのは、神話学者先生にはこの御言葉が見せる風景をまるでご存じ無いからである。日向国は凄い。どれだけ凄いかと言うと、彦火瓊々杵尊が高千穂峰山頂で発しなさった人間最初の地上での御言葉の内容を、現代でもそのまま見ることができるからである。


●中央の神話学者先生は、そういうことを何もご存じ無い。だから「古事記」が記録するこの御言葉の真意が理解できない。本当は「百聞不如一見」なのだけれども、誰もそういうことをなさらない。

●こんなふうに書いたところで、現実味がまるで無いから、実際、具体例を挙げて紹介したい。近年、日向国について論述した著作に、安本美典著「邪馬台国は、その後どうなったか」(1992年:廣済堂出版)と、梅原猛著「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」(2000年:新潮社)がある。本ブログでは両著について、これまで何回か取り上げ、紹介している。
  ・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『安本美典:「邪馬台国は、その後どうなったか」』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40673150.html
  ・書庫「日向国の万葉学」:ブログ『梅原猛:「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40674789.html

●お二人とも、わざわざ日向国を訪れ、日向国を隈なく探索し、懸命に日向国がどういうものであったかを知ろうと鋭意努力している点は大いに評価できる。多くの学者先生が日向国がどういうところであるかも知らなくて日向国を論じているのに比べれば、安本美典も梅原猛も、日向国中を丁寧に歩いていると言えよう。

●ただ、残念なのは、二人とも自分の目を信じ、自分の感性を信じてものを見ていないことである。折角、わざわざ日向国まで来ているのに、通り一遍の見物や観光をしたところで仕方があるまい。そこに存在するものが真実のものであるか、後世の贋作なのかを見極める姿勢は最低でも必要だろう。

●こんなことを書くと、日向国には贋作揃いと思われるかもしれない。しかし、話は何しろ神話時代の話である。百年前や二百年前の話と同様に考えることはできないのは当たり前である。様々な人々の希望要望期待願いが錯綜することによって、様々な伝説が誕生し、偶像化が行われていると考える方が普通だろう。そういうものを除外する作業は必然である。

●それは時には国家的権力として実行される。一つ例を挙げるなら神代三山陵が好例だろう。現在、神代三山陵は、次のように比定されている。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

●こういう国が規定しているものに間違いは無いとの先入観が間違いのもとである。神代三山陵比定地を考えるのに、江戸時代の国学者、白尾國柱の研究を無視することはできない。彼ほど丁寧に神代三山陵を研究した人は居ないからである。それなのに、上記の神代三山陵比定地は明治時代に比定されたにも拘わらず、白尾國柱の研究を無視したものとなっている。それでは到底、真実の神代三山陵へ至ることはできない。

◎結論から言うと、安本美典の「邪馬台国は、その後どうなったか」も、梅原猛の「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」も、全く日向国を解明することなく日向国を後にしている。安本美典や梅原猛が老齢との思えないほど、血気盛んに熱弁を振う割には、収穫や中身が何とも乏しい。

◎安本美典や梅原猛ほどの学者先生に物申すのも何だが、古代日向国を理解しようと思うなら、「古事記」や「日本書紀」を読むだけでは、まるで勉強不足だと言うしかない。加えて「万葉集」は最低必要だろう。

◎それに、大事なのは宗教である。特に仏教と神道は欠かせない。せめて、修験道くらいは理解しないと日向国は語れない。神道でも大山神祇や大物主大神くらいの正体は突き止めてからでないと日向国は語れない。安本美典の「邪馬台国は、その後どうなったか」や、梅原猛の「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」を読むと、安本美典や梅原猛にはもうそのエネルギーは失せているように感じる。

◎閑話休題、人間最初の地上での御言葉、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊の詔、
  此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、
  朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。
  故、此処は甚吉き地。
の風景は、宮崎県高千穂峰山頂から現在でも見ることができる。それが上記の写真である。この写真は今年の1月4日に写したものである。

◎ただ、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊の詔は、現代人が理解することはなかなか難しい。まず「韓国」から説明が必要だろう。現代人はこれを『かんこく』と読む。しかし「古事記」では『からくに』と読む。意味ももちろん違う。現代語の韓国なら朝鮮半島の国に意だが、『からくに』は中国本土の意である。つまり、宮崎県高千穂峰山頂からは中国本土までの道程が想像できると言うのである。

◎これもなかなか現代人には理解不能だろうから、以下に掲載しておく。
  ・坊津→硫黄島(56辧
  ・硫黄島→口永良部島(36辧
  ・口永良部島→吐噶喇列島口之島(59辧
  ・吐噶喇列島口之島→吐噶喇列島中之島(14辧
  ・吐噶喇列島中之島→吐噶喇列島諏訪之瀬島(28辧
  ・吐噶喇列島諏訪之瀬島→吐噶喇列島悪石島→(24辧
  ・吐噶喇列島悪石島→吐噶喇列島宝島(50辧
  ・吐噶喇列島宝島→舟山群島(600辧
  ・舟山群島→寧波(150辧
  ・寧波→会稽(100辧

◎これは決して空想とか想像では無い。これまで、硫黄島へは6回、吐噶喇列島へは3回、舟山群島と寧波へは5回、会稽には4回訪問し、そのことを確認している。

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