○現在は、国見山と呼ばれることが多いけれども、もともとの正式名称は高屋山と言う。内之浦には、高屋神社が鎮座ましまし、その御神体が高屋山である。鹿児島県神社庁のHPに掲載されている高屋神社は、次の通り。
高屋神社
【神社のご案内】
神社名:高屋神社
神社名カナ:タカヤジンジャ
鎮座地:〒893-1401 肝属郡肝付町北方1500
例祭日:十月九日
通称:
旧社格:郷社
神紋:
摂末社:2
社宝:
【御祭神】
彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)
豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)
天津彦火瓊々杵尊(アマツヒコホノニニギノミコト)
木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
彦波瀲武鵜草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)
玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)
水波能賣命(ミズハノメノミコト)
大水上御祖神(オオミナカミノミオヤカミ)
大己貴命(オオナムチノミコト)
猿田彦命(サルタヒコノミコト)
国見嶽坐出見命(クニミタケニマスデミノミコト)
【由緒】
人皇十二代景行天皇が熊襲親征のため天子山に滞在中、当社より二里ほどの国見山山頂の高屋陵とい
われる彦火々出見尊の御尊骸を葬る霊所禿倉より、尊の神霊を勧請して創建されたと伝えられる。
天喜二年朝廷より神階を受け、従二位高屋大明神と称した。永正二年正月火災に遭い、記録等も悉く
焼失したが、肝付氏により、再興され、寛永の頃りは島津氏の崇敬も受けた。享保二年、正一位を授け
られている。宝暦十三年再び火災に遭ったが、明和二年島津藩により再興された。嘉永六年島津斉彬公
が参詣、また明治五年には勅使の参拝があった。
昭和三年、無格社の水、小国、川上、近戸宮の四神社を合祀した。また、平成五年に神明神社を合祀
した。
http://www.kagojinjacho.or.jp/search/ohsumi/kimotsuki/post-624.html
○国見山が高屋山であることの意味は大きい。嘗て現在の肝付町役場辺りは高山町と呼ばれた。平成の大合併で高山町の名は消滅した。その高山町の名が『こうやま』であることも、もとは高屋山に由来するものと思われる。
○つまり、高屋山の南側には高屋山を斎き祀る高屋神社が存在し、北側には高山町が存在した。それ程、この辺りでは存在感のある山が国見山である。旧高山町に国見の地名が存在することから、国見山の命名は高山町側からのものであることが判る。
○寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」で、白尾國柱が高野山を高屋山陵に比定していることの意義は大きい。つまり、鹿児島県鹿屋市吾平町上名に存在するのが彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の吾平山上陵であるとすれば、彦火火出見尊の高屋山上陵は吾平山上陵のすぐ近くに存在することになる。
○神代三代である彦火瓊瓊杵尊と彦火火出見尊、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊が親と子と孫の関係にあることを考えれば、そのお墓が近在することは十分考えられることである。そういう意味で、神代三山陵の第一人者である白尾國柱の指摘することは大きい。
○白尾國柱の研究を継承すれば、真実の神代三山陵比定地は、次のようになる。
初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
○国見山が高屋山であることは、そういう意味である。「肝付町三岳まいり」では、残念ながらそういう説明が一切なされない。それでは何の為の三岳参りなのか、まるで意味不明と言うしかない。